今日は宍粟城研の先輩タケネットさんが来篠され
丹波篠山の山城を案内させていただいた。
すでに、篠山随一である波多野氏が拠った八上城は登られたとのことだったので
氷上郡黒井城主赤井直正と多紀郡八上波多野氏を分断する意図で
明智光秀が築いた郡境の金山城をセレクト、真夏の陽射のなかを攻め上がった。
2012年07月31日
氷上郡と多紀郡を分断する山城、金山城攻め
2012年07月28日
籾井城、鳥居コース攻め
先週に続いて籾井城攻めに出陣。
これまで、大手ともいうべき禅昌寺から、西に伸びた尾根先から、
先日は、搦め手という本明谷の本休禅寺からのルートを攻めてきた。
今日は、デカンショ街道からも見える南西部の鳥居コースから攻め上った。
安田より城址を遠望 登り口の鳥居
知り合いのKさんに確認したところ、「鳥居からのコースははっきりしてるよ」
ということだった。その言葉とおり、山腹にある祠までは広い道が整備され、
古びた祠からは山腹を捲くようにして山道が尾根筋へと続いている。
2012年07月22日
籾井城、搦手コース攻め
昨日の戦国倶楽部の呑み会のアルコールを排出せんと
夏の陽射しが照りつける中、籾井城攻めに出陣した。
籾井城はこれまで何度か登山したが、
今日は搦手にあたるという本明谷側の本休禅寺からアタックした。
本休禅寺は、一説に城主籾井氏の菩提寺で平時の館が構えられていたところともいい、
一族が拠った東方の安口城との関係からも城道があって然るべきところである。
石垣が館址を感じさせる本休禅寺
まず本休禅寺の左手にあたる山側に取りつき、生い茂る夏草を掻き分けながら踏み跡をたどって谷筋へ出た。その先の谷筋は荒れた急斜面となり、当然、道らしきものもない。これは違う!と見極めて本休禅寺へ一旦立ち戻って次のルートを探す。
2012年07月21日
波々伯部氏の支城東山城跡整備作業がスタート
とくに、この春からは明智光秀の丹波攻めに関わる
兵庫丹波の八上城、黒井城、金山城をさまざまなルートから攻めている。
明智光秀を大河にしよう!という動きが生じてからわが町の山城を
2012年07月17日
坂田明トリオ JAZZ ライブを堪能する

2012年07月16日
京都で家紋講座を拝聴

講師は大宮華紋代表の森本景一さんと勇矢さん親子、
景一さんは家紋の世界ではすでに知る人ぞ知る存在で、女紋の研究ではピカイチの人物。
講座は飛び入りで日本家紋研究会の高澤会長が登場という豪華さになった!
2012年07月15日
京都、祇園祭&路地歩き
お馴染みとなった、職場仲間との「歩き会」の幹事を拝命し、
『京都の祇園祭&路地歩きを楽しむ!』
という企画を提案、「え〜やん」 との承諾を得て京都に出かけた。
前日の豪雨が嘘のような快晴、
篠山から園部に移動、そこから電車で京都へ向かうというルート
亀岡を通過して保津峡のトンネル群に入ると、折々に見える
保津川は昨日の雨で渦巻く濁流、今日は保津川下りも中止になったとのことだった。 京都の町家に今年の粽が…
さて、当初のスケジュールでは水族館にも寄ることになっていたが
電車の中で水族館の入館待ちを子どもと一緒に並ぶも面倒だし、
京都歩きは祇園祭一本で行こう!ということに衆議一決、京都駅で下車した。
2012年07月10日
丹波青磁・篠山藩窯・王地山焼 竹内保史 展 を見る
『丹波青磁・篠山藩窯・王地山焼 竹内保史 展』 に行ってきた。

王地山焼は丹波篠山藩主青山忠裕がお庭焼として始めた磁器で
藩窯として名品を世に出したが廃藩置県とともに廃れた。
以後、幻の磁器となり知る人ぞ知る存在となっていった。
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2012年07月08日
家紋を探しに、ふたたび亀岡馬路へ。
昨日から来篠していた次女夫婦を亀岡まで送りがてら、先日の訪問で見落としていた河原家の家紋探索に馬路を再訪した。
篠山から亀岡へはデカンショ街道を東進することになるが、その途中に古い宿場町福住がある。いい感じの町並みが残ったところで、伝統建築群の指定を受ける運動が大詰めになっているらしい。
そんな福住に最近店開きしたイタ飯屋さんで昼食をとる。料理店に勤務する婿のMいわく、なかなかいい感じで美味しい、とくにエスプレッソは抜群だとのこと。なるほど、婿がそういうのならば、なかなかの店なのだろう。また、機会があれば行ってみよう。
さて、次女夫婦を送り届けたあとは、馬路集落へ。
2012年07月07日
スモモのジャム作りに誘われて綾部へ。
いつ連絡がくるのか待ちわびていたら、今日やりますとのメールが到来。
さらに続報が来て鹿肉があるので竜田あげにしたい、
手伝って(もちろんウサに)欲しいとのこと。
2012年07月01日
亀岡、馬路に続く両苗を探る
京都の西方−丹波亀岡市の北西に位置する馬路、
環濠集落の雰囲気を残した古い村で、中世、馬路城があり、
そこを拠り所とした在地土豪集団が割拠していた。
数十軒はあろうかとみえる村の家々は、中川、人見、河原、畑、中澤の
五つの名字でほぼ網羅されるという珍しいところだ。そのうち、中川、人見両家は
馬路の両苗と称され、ともに戦国時代を生き抜いた中世武家の流れだ。
立派な家並が残る、馬路集落