2009年07月26日

篠山の夏、水無月祭を堪能する

篠山市の東方にある古い宿場町福住に鎮座する川原住吉神社で、今年も夏の例祭水無月祭が行われた。辻回しの行われる三時過ぎを見計らって、ウサと出かけてきた。ちなみに、今年で三回目の見物である。
祭の見所は川原(菊水山)、本明谷(鳳凰山)、福住上(鶴寿山)、中(獅子王山)、下(亀甲山)の五つの部落から出る五台の山車の巡行と宮入、山車の上でこどもたちが奉納する打ち込み囃子と盛りだくさんにある。福住は京、大坂に通じる地にあったことから、京やなにわの文化を感じさせるところで、市の無形文化財に指定される打込囃子は、江戸末期に大阪の文楽座で活躍していた福住出身の竹本住江太夫が、帰郷後、六台の山車ごとに打ち込み囃子を作詞・作曲、天保年間(1830〜43)の山車の巡行に取り入れられたのが始まりと伝えらている。

むかしは宵宮、本宮祭と二日にわたって行われていたが、生活様式の変化などもあって。いまでは七月最後の土曜日に宵宮・本宮ともに行われているらしい。 
 
水無月-山車揃いs 
山車が一堂に勢揃いしたのは何十年かぶりのことという

祭はあいにくの雨模様のなかで始まったが、時間とともに陽光が射すようになり、晴れ間の下で賑やかに巡行が行われた。

水無月-本殿 水無月-飾り 水無月-山車巡行
住吉神社   鉾や幡で飾られた拝殿   山車の巡行(後方は籾井城址)

今年の篠山は築城四百年の節目の年にあたり、さまざまなイベントが企画、開催されている。水無月祭も四百年祭の一環として何十年ぶりかという山車勢が行われ、例年にはない華やかな賑わいがあった。見事な山車が、古宿場町の佇まいを残す街中、稲穂が顔を出した青田の向うを巡行する情景は素晴らしかった。

水無月-山車御簾 水無月-青田と山車 水無月-囃子
菊水山に据えられた紋  青田の向うを山車が巡行  山車の上で囃子を奏でる子供たち

水無月-山車群 水無月-休憩 水無月-宮座
集合した山車に飾り提灯が付けられる   男たちの休憩  宮入をまつ宮座の大人たち

見応えもあり、見所も多い祭だけにもっと多くの人に見て、楽しんでほしいと思うのはクマだけではないだろう。それだけに、四百年祭の事務局による宣伝不足が思われ、数々の見せる工夫もあっただけに、まことに惜しまれた。宮入を前にした頃より、雨がポツポツと降りだしてきた。昨年は突然の雷雨によって退散したが、今年も打ち込み囃子を見物することなく無念の退散とあいなった。残念! by kuma
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2009年07月24日

武蔵武士足立氏の家紋を訪ねる

丹波市山垣は、中世、佐治庄の新補地頭として遠く武蔵国足立郷から移住してきた足立氏が領するところであった。いまも、山垣には足立氏の居城であった山垣城址、足立遠政の墓、足立氏の菩提寺などが残っている。さらに、小和田、遠阪、岩本、稲土などに一族が支城を築き、足立氏は一円を支配しておおいに繁衍した。
 
足立-城
山垣城址、山麓に足立遠政の五輪塔、左手の小山中腹に足立家の墓地がある

名字としての「アダチ」は「安達」「足達」「安立」などと書かれるものもあるが、「足立」と書けばほとんどが丹波出身の方ではなかろうか。それほど、丹波には足立姓が多く、その源となったのは山垣城主足立遠政であった。承久の乱の功により丹波国佐治郷を与えられた遠政は、承久三年(1209)に地頭として移住してきた。山垣城山麓の高台に遠政の五輪塔が祀られ、墓所を取り巻く玉垣の石扉に「酢漿草紋」と「五本骨扇紋」が刻まれている。

足立-遠政墓 足立-カタバミ 足立-扇
遠政の五輪塔  玉垣の石扉の「酢漿草紋」と「五本骨扇紋」

墓所左手の小山中腹には、江戸時代の墓石もみえる足立家の古い墓地があり、「五本骨扇紋」「剣酢漿草紋」がみられる。山垣城とは谷を隔てた西方の山麓にある足立氏の菩提所万歳山報恩寺の境内墓地にも足立家の墓石が林立し、それぞれ「扇紋」「酢漿草紋」が刻まれている。さらに、山垣の北方遠坂集落にある不遠山四方寺にも足立家の墓石が立ち並び、こちらは「扇紋」のオンパレードである。

足立-剣カタバミ 足立-報恩寺 足立-扇2
足立家の墓石の「剣酢漿草紋」  万歳山報恩寺  報恩時境内墓地の「五本骨扇紋」
 
足立氏の墓石を仔細に見て歩くと、「五つ木瓜輪に五本骨扇」、「三つ地紙紋」、「違い扇紋」などを刻んだものもあるが、それらも「扇」紋のバリエーションである。一方、それぞれの境内墓地には足立氏以外にも勝田家・山本家・三木家・雪山家などの墓石もあったが、いずれも「五本骨扇紋」が刻まれていた。元々は一族であったものか、あるいは家臣であった家が足立氏から紋を与えられたものか、今後、調べていきたいテーマである。

足立-扇3 足立-扇4 足立-扇5
五つ木瓜輪に五本骨扇  三つ地紙紋  違い扇紋

文字通り、青垣一帯は足立名字のメッカであり、「扇紋」の天下であった。これだけ、見事に名字と家紋がセットで残っているところは希少な存在ではなかろうか。 by kuma
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2009年07月15日

篠山の山城あれこれ

この一ヶ月、取り憑かれたかのように篠山の山城に登っている。篠山の戦国山城といえば、波多野氏が本拠とした八上城があまりに有名で、ついで、畑氏の寄った八百城、籾井氏の福住城、荒木氏の細工所城などが知られる。それも含めて篠山市内には多くの山城が残っていて、中世の歴史をいまに伝えている。いずれも知られることの少ないない城跡ばかりだが、登ってみるとなかなか興味深い遺構が残っており、篠山の戦国時代を体感できるところだ。
 
八上遠望s 八百里遠望s
八上城址を遠望   土居の内越しに八百里城を見る、後方には三嶽

篠山市街北方の山上にある笛吹山城と市谷城、旧多紀町内に残る西吹山上城に登って来た。笛吹山城と市谷城は縄張り図を入手できたが、西吹山上城は城であったという伝承があるばかりだ。 
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posted by うさくま at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2009年07月13日

サンデーとマガジン

いまから五十年前の昭和三十四年(1959)、少年サンデーと少年マガジンが創刊された。それは、のんびりとした月刊誌時代に幕をひき、日本の経済成長とあいまって少年雑誌の世界を大きく変革させる事件であった。そして、何よりも現代につづくマンガ時代を開くものとなった。そのころクマはまだ田舎に住む小学生で、毎週毎週発刊される雑誌を買えるような身分ではなかった。月、一回、買ってもらった「少年」が何よりのマンガ雑誌であった。
当時の田舎はまことにのんびりしたところで、車やテレビの普及率も低く、本を買うといっても自転車で三十分!もかかる遠い町の本屋さんまで行かねばならなかった。そんなド田舎に暮らすガキにとって、毎週発刊される雑誌を購入するなど夢のような話だった。それでもサンデーとマガジンが発刊されたことは、後付けの記憶かも知れないが、おぼろげに覚えている。
やがて、村にできた散髪屋さんにサンデー・マガジンが置かれたものを見たり、年上のだれかれが買ってもらったものを見せてもらったりしてサンデー・マガジンが身近な存在となっていった。で、おそまつ君、伊賀の影丸、おばけのQ太郎といった連載マンガの面白さに霧中になった。おばけのQ太郎では似顔絵を描いて編集部に送り、絵葉書をもらったこともあったりして、マンガ家になりたいという野望をかきたてられた。なかでも、水木しげる先生の「墓場の鬼太郎」には、一大衝撃を受け大ファンとなった。以後、いまに至るまで変わらぬ水木さんの大ファンである。
今回、「サンデーとマガジン」を読んで、サンデーとマガジンの発刊が、日本のマンガ史において画期的なものであったことが改めてよく分かった。当時、人気マンガ家であった手塚治虫をはじめ、寺田ヒロオ、石森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫といった「トキワ荘」組の新人マンガ家たちの登場、さらに、水木しげる、白土三平、斎藤たかおなど貸本マンガ界で活躍していた劇画家たちのメジャー進出など、いま振り返ってみてマンガがドンドン世の中に溢れ出した時代であった。サンデーとマガジンに連載されたマンガは、自分の青春とそのままかぶっていて、「あしたのジョー」「巨人の星」「天才バカボン」「アシュラ」「サイボーグ009」などなどなどなどなど、忘れられないものばかりだ。
 
 
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posted by うさくま at 23:04| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書

2009年07月11日

続、篠山の家紋散歩

沢田山小林寺の境内墓地で家紋を探索したあと、東本荘にある市谷城址への登り道を探索するため東本荘へと車を移動した。その途中で、立派な家に据えられた「六つ柏紋」が目に入った。早速、車を路肩に停め、家の表札を見ると小畠家とある。おそらく、園部の宍戸城主であった小畠氏の一族かと思われ、すぐ近くの慈照寺を訪ねてみた。境内墓地に足を踏み入れると、小畠家の墓石が並び立ち、いずれも「六つ柏」紋が刻まれていた。お寺の佇まいも悪くなく、なんだか得した気分である。
市谷城址への登り道は、慈照寺東方の谷筋にある日蓮宗寺院東側の尾根とにらんで車を走らせる。城址が見えるところに車を停め、登り道を探して歩き出すと「一文字に三つ星」の家紋を付けた家がある。「一文字に三つ星」といえば戦国大名毛利氏と同じ紋であり名字が気になったが、さすがに見ず知らずの方の家先にズカズカと入っていくことははばかられる。ひとまずあきらめて、寺院を目指す。

 
六つ柏紋 一文字三つ星
   六つ柏(柏車)紋         一文字に三つ星
 
住職らしき男性に城址のことを聞くと、「分かりません」とのこと、城址のある山はお寺の屋根後方に見えているのに残念!さらに、民家の方に聞くと「城のことは知らないが、山ならここから登れる」と家の隣にある藪に案内していただいた。「松茸の季節でなければ、自由に登っていいよ」との有難いことばを頂戴、お礼を言ってつぎの目的地である野々新に向かおうとした。すると、さきの方がわざわざ追いかけてこられて、「家内に聞くと、山上に城があるそうや!」と嬉しいことば。最初は胡散臭そうな対応であったが、一度話すと田舎の人は親切です。改めてお礼をいい、「一文字に三つ星」の家のことを聞くと「あれは宇野さんの家や」と教えていただいた。せっかくなので、すぐ東の山麓にある寶鏡山洞光寺へ家紋散策に行くことにした。
 
洞光寺-遠望
洞光寺へ、後方にある山の頂上に市谷城址がある。

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posted by うさくま at 19:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 家紋

2009年07月09日

篠山の家紋散歩

今週は梅雨らしく雨が続いている。山城登りは小休止して、ホームページの更新に精を出していた。が、ジッとしていられない性格が首をもたげてき、「そうだ、家紋を探しに行こう!」と家を飛び出した。
まず、能舞台で知られる黒岡春日神社の東方にある沢田城址の故地に立つ小林寺へ。小林寺は沢田城主であった小林氏が開基に関わる寺であり、これまで何度か訪問しているがいずれも城址探索が目的であった。城址探索がてらにそぞろ歩いた境内の墓地には小林家の墓石が林立し、寺紋でもある九曜紋を刻んだものが多かった。また、戦前の名士本郷房太郎大将の墓、篠山藩の家老であった蜂須賀兵庫の墓や顕彰碑をはじめ、かつての篠山藩士の家のものと思われる古い墓があるところで、かねてよりジックリ家紋探索をしたかったところだ。

小林寺_s
沢田山小林寺、後方の山上が沢田城址 (2008年5月5日)  

小林寺-紋_s
寺紋の九曜 (2007年1月7日)
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posted by うさくま at 17:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋

2009年07月06日

周山城、再攻略

つい先日に登ったばかりの周山城へ、早々と再訪してきた。前回、主曲輪群を中心に西出曲輪までを探索、主郭の西曲輪から南曲輪に残る石垣群の素晴らしさには大感激だった。しかし、時間切れで北の出曲輪群の攻略が出来なかったため再攻略を目論んでいた。一方、この春に如意ヶ嶽城に登った親友のH君に「そろそろ山城探索に行かない?」と誘ったところ、「行こう!」との快諾を得た。攻略先として「観音寺城」「鹿背山城」そして「周山城」を提案したところ、周山城に行くことに決定したのだ。
ウッデイー京北の駐車場で待ち合わせ、落ち合ったところで弁当とお茶を調達。先日ゲットした案内図と縄張り図を手に城址を目指した。
 
周山2-石垣
やはり、素晴らしい山上の石垣群

堀切道を登り、尾根から山裾を捲いて東尾根曲輪と主曲輪群との境目の堀切に到着。堀切左手に続く尾根が曲輪群で、細長い尾根曲輪を越えた先のピークに築かれた曲輪を中心に西側に腰曲輪、南側下の曲輪には中継アンテナが建設されている。山麓から見えるアンテナがこれだ。東尾根曲輪は位置から推して京都方面への見張り台の役目を持っていたと思われ、京北市街から栗尾峠方面が見えるかと期待したが樹木で遮られ下界を望むことはできなかった。 
 

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posted by うさくま at 09:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 丹波の山城

2009年07月04日

丹波と播磨の国境、今田の城に登る

この二ヶ月、天気がよければ丹波の戦国山城に登っている。とくに篠山市のあちこちに残る山城群に登っていて、今回、丹波焼で知られる今田に残る市原城、木津城に登ってきた。いずれも、戦国時代に今田一帯を領していた「謎の武家」小野原氏が築いたものである。
城址へは篠山市内から社方面に通じる372号線の本庄交差点を左折、すぐ右手前方の山上に市原城、さらに南下したところにある木津集落後方の山上に木津城がある。一帯は、丹波と播磨の国境にあたり、小野原氏は八上城主波多野氏に属して国境の守りに任じていたようだ。

木津-遠望
加東市側から木津城を見る

『篠山領地誌』によれば、市原城は「小野原采女が築いた城跡は市原の北西の山上にある、縦二十二間、横十八間。采女は掃部の長男で、小野原を領していたが、天正年間に戦死した。詳しいことは明らかではない」とあり、木津城は「小野原掃部の城跡が木津の北西の山にあり、縦二十間、横十五間、南に向かって通路がある。掃部は小野原の領主であるが、その詳しいことを知る者はいない」とあり、「詳細は分からない」とまことにたよりない記述ではある。いずれにしろ、小野原掃部が木津城に拠り、子の采女が市原城に拠っていた。そして、。『籾井日記』によれば、一族には小野原右京勝政、六郎次郎勝繁。六郎左衛門勝好らがおり、天正三年(1575)の亀山城の戦、翌四年の桂川の戦いに波多野方として出陣、活躍したという。

市原-遠望
東条川を天然の濠とした市原城址

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posted by うさくま at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2009年07月03日

誕生日は、生垣をスッキリ

かねてより、野放図に伸びていた生垣、気にかかっていったが梅雨明けまで待つか・・・と放っていた。しかし、梅雨の雨の影響もあって、とんでもない状況を呈してきた。

生垣、刈る前 まさにボウボウ状態

で、何度目かの誕生日である今日、おもむろに刈りはじめた。ところが、半分くらい刈ったところで電動剪定バサミがストップしてしまった。「何事が起こった!」と調べたところ、生垣と一緒に電気線を刈ってしまっていた。以前にも線を刈ってしまい修理をしたことがあり、早速、修理に取り掛ろうとしたがソケットの喉首を切ってしまっている。この修理はチョット難しい、新しいものを買った方が早いしキレイ、ということで近くのコーナンに出掛けることにした。

生垣-刈った後 とってもスッキリ
 
せっかく出かけるのならコーナンの往復だけではつまらん!と、一揆がらみで処刑された義人を祀った地蔵さんと地蔵さんの近くにある寺院墓地の家紋を探索してきた。あれやこれやと時間をつぶしてのち、改めて生垣刈りに着手、なんとかスッキリと仕上げることができた。そして、作業のあとは一杯の冷えた缶ビールだ。「う〜ん、美味いっ!」 まるで、世の中の動きと乖離した時間の中を生きているようで、「これではいかん!」、いやいや「これでいいのだ!」と・・・何ともたよりない日々を過ごしている。 by kuma
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2009年07月02日

庭の野菜、ついに収穫!

つい先日、庭の野菜に実がついたと思うと、トマトはアッという間に色付き、胡瓜は立派に成長してきた。枝が折れかけたり、葉が白くなったりして、ちゃんと収穫できるのか?とやきもきもしたがまずは一安心だ。

トマト色付き
ほんの二個だが、赤くなってきた (6月28日)
 
胡瓜成長
一本ばかりが妙に育ったが、次々と成長一途だ (6月28日)
 
野菜は育ち出すと、その成長ぶりは驚くばかりだ!で、トマト二個、胡瓜三本だが、嬉しい収穫とあいなった。食べてみると、これが、なかなか美味しい。ウサクマの野菜育て、まずは第一関門クリアといったところだ。 

野菜収穫 ささやかな収穫 (6月30日)

いまも花が咲き、実がドンドン育っている。しばらく、自作の新鮮な野菜が楽しめそうだ。また、ウサが糠床を作ったこともあって、うまい漬物もいただけそうだ。花や木を育てるのも楽しいが、やはり食べられる野菜が育ち収穫できるのは格別である。 by kuma
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