2009年06月28日

庭の野菜に実が付いた

ミニトマト、胡瓜に始まって、大葉、オクラ、パプリカ、唐辛子などなど、庭のあちこちに野菜を植えて一ヶ月半。丸虫や害虫、あるいは雨風にやられたものもあったが、ミニトマト、パプリカに付いた実がボチボチと育っている。
 
庭-パプリカ
右側の実は虫にやられて落ちてしまった
 
庭-トマト
実はドンドン付いている、赤くなるのが楽しみだ
 
庭-胡瓜
一時、萎れかけたが、何とか実が付いた
 
しかし、風で茎が折れたり、空梅雨で萎れてしまったり、せっかく付いた実が虫にやられて落ちてしまったり、と油断はできない。なんとか、「このまま育ってくれよ」と、目の離せない毎日である。 by kuma
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2009年06月23日

山城に登った!家紋を見てきた!

先週、亀岡の数掛山城址、氷上の朝日城址に登ってきた。数掛山城は篠山の八上城主波多野氏の一族が拠った城といわれるが、地元土豪の森氏が拠った城とする説もある。一方、朝日城址はといえば、丹波の赤鬼の異名を持つ黒井城主赤井直正が養子に入った荻野氏の居城であった。
数掛山城の山麓には、かつて城址に祀られていた白山権現を鎮守とする大黒山永徳寺がある。永徳寺は境内の一角に鎌倉時代の九重塔と思われる七重となった層塔が現存する古刹だ。お寺の山側の古い墓地を訪ねると、大西家、中村家、栗林家、そして森家の墓が祀られていた。それぞれの家紋を見ると、

永徳寺

take_01.jpg katabami.jpg ken_kata.jpg
     丸に割菱          酢漿草(カタバミ)       剣酢漿草  

upfji_kama.jpg
     上り藤に鎌

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posted by うさくま at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋

2009年06月18日

四方田犬彦氏の「白土三平論」を読んだ

白土三平氏のマンガとはじめて接したのは、月刊誌『少年』に連載された「サスケ」である。小学校低学年のころで、当時、「隠密剣士」とか「風のフジマル」などの「忍者物」がヒットしていた。忍者の駆使する不思議な技、黒づくめの衣装に七つ道具、多くの少年が忍者に憧れた。「サスケ」に魅かれたのは、マンガの中で使われる忍術の技が科学的な視点で解説されていたことだ。ひょっとして、図解どおりにやれば自分にもできるのではないか?と真剣に考えたことを思い出す。
今回、マンガ評論家四方田犬彦氏が著した『白土三平論』を図書館で発見、借りて帰って読んだ。四方田氏も白土三平のマンガに接し、忍術の解説を実行しようとしたという。プロフィールを見ると、やはりクマと同い年であった。なにやら親近感も湧いてきて、読んでいったが、「面白かった」というものでもなかった。なにやら学術書を読んでいるようで、頭が休憩タイムを求めてくる。
 
白土本
 
貸本時代における超ヒット作「忍者武芸帳」から始まり、「シートン動物記」「サスケ」「ワタリ」「真田剣流」「カムイ外伝」などの雑誌連載もの、そして『ガロ』に連載されて一世を風靡した「カムイ伝」などの作品が生み出された時代、白土マンガの軌跡が丁寧に叙述される。「忍者武芸帳」を除けば、ほぼ白土マンガに接してきたクマとしては、読んだ当時のことが思い出され、非常に懐かしかった。しかし、読み物としては、なんというか面白くないのだ!
白土三平氏のマンガは、初期の作品はすごく面白かったのだが、次第にエンターティメントな部分がカゲを薄め、「カムイ伝」の最後の方は歴史的な面が前面に出てきてすごく重い物語になっていった。それが、当時の学生運動というか政治運動(安保)と相俟って、妙な方向でもてはやされたことが、単にマンガ好きな読者に戸惑いを与えたのではなかろうか。どこかの大学の先生は、「カムイ伝」を教材として使用されているという。そのことは、別の見方をすれば白土マンガに教材たりえる「何か」があるということだろうが、それはマンガそのものとしての面白さとは違うような気もする。
『白土三平論』は、クマにとって子供のころより接してきた「好きなマンガ家白土三平氏とそのマンガ群」を、同年齢の四方田氏が論じられたもので、自分史をふりかえる格好の一冊であった。面白い、面白くないは個人の主観であって、読後感は十人十色であろう。いずれにしろ、白土三平氏を語る書物として最高の一冊であることは間違いない。 by kuma
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2009年06月17日

数掛山城、二度目のアタックで攻略

この春、亀岡の本梅町平松を見下ろす山上に築かれた滝ヶ峰城址に登った。城址を探索したあと、さらに西方の山上にある数掛山城攻略を目指して尾根を縦走。ところが、道は消えてなくなり、地図と見比べつつ潅木を掻き分けて谷筋に降り立った。しかし、そこから数掛山城に通じる道を探したが、ついに発見できず、夕暮れも迫ったことで下山に決定。数掛山城攻略は見事に挫折とあいなった。その後、時間をみては地図を見ながらあれこれ検討、再チャレンジの日を待った。
滝ヶ峰城址へは山麓の桂林寺近くの谷筋から分け入り、NHKのアンテナを経て山上に通じる山道を登って行った。今回は、桂林寺北方にある寺垣内集落の廣峰神社から山上に通じる山道を選択。地図を見る限り、山道は数掛城址を通過しており、「これなら行けるで!」とウサを急かして出発とあいなった。

数掛-遠望
山麓の大黒山永徳寺から城址方面を見る

廣峰神社の近くに車を停め、城址へと歩き出したものの城址に関わる標識はまったくない。地図を見ながら林道に分け入ると、やがて林道は途切れ、やや荒れた雰囲気の山道がつづいている。山道はしっかりしているが、手入れがされていないようで倒木がすごい。木を潜ったり、跨いだり、あるいは迂回したりしながら山上の城址へ。

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posted by うさくま at 08:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城

2009年06月13日

丹波最先端の山城、周山城

数ある丹波の山城のなかで、もっとも進んだ技術で造られた山城、それが周山城だ。城址は黒尾山の東支峰上に位置し、東山麓には京と若桜を結ぶ周山街道が通じ、弓削川が天然の濠をなす要衝の地である。天正七年(1579)、宇津氏を滅ぼした明智光秀が、丹波支配の戦略的拠点として築いたものだ。丹波山城群のなかでは最末期に位置するもので、天守、石垣、石塁など当時最先端の技術を用いて築かれている。
天正九年八月、津田宗及と十五夜の月見を周山城で楽しんだ事が「津田宗及茶湯日記』に記されている。苦労の末に丹波を平定した光秀にとって、新城における宗及との月見は和やかで満ち足りたものであったと想像される。まさか、その一年後に波乱の人生の幕切れが待っているとは、神ならぬ身の知るよしもないことであった。

周山-秋
一昨年、紅葉見物の途中に眺めた周山城 (2007年11月)

周山城はこれまで二度ほど近くを通ったが、いずれも登るまでにはいたらなかった。丹波各地に割拠した戦国武将の山城攻略を続けることに忙しかったうえに、今年は京都周辺の山城めぐりに汗を流してきた。とはいえ、丹波の山城攻略をつづけるなかで、明智光秀の存在と相俟って周山城は気になる城になってきたのだ。で、登ってきた!篠山から車で約一時間、周山城山麓にあるウッディー京都に駐車。城址への案内図を入手し、 となりのサンダイコーで食い物を仕入れて弓削川の向うに聳える山上の城址を目指した。

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posted by うさくま at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城

2009年06月10日

蛍を見に行った

篠山市内を流れる篠山川支流の山間部では、川を自然な状態のままに維持してゲンジボタルを守ろうとされているところがアチコチにある。田植えも終わり、梅雨入りも間もなく、そろそろホタルが現われる季節がきた。 ということで、かねてよりチェックしていた篠山市内の某所へホタル見物に出かけてきた。

蛍-カンバンs
篠山某所にあるゲンジボタルの保存地に立てられた案内板 

蛍-川s
決してキレイではないが、自然の状態に保つ努力が続けられている

離れたところに車を停めてライトを消し、ソッと近づいていくとフワリフワリと漂うようにホタルが飛び交っている。「ホタルの墓」のような群舞状態ではないけれど、そこそこの数のホタルが川のあちこちで光をフンワカと点滅させていた。
一匹、二匹のホタルなら何度か見たことはあったが、これだけの数のホタルを見たのは四十年以上ブリのことだ。神秘的で儚いホタルのイルミネーションに加えて、なにやら昔なつかしい田の匂いも・・・。遠い少年時代のふるさとの情景が思い出され、「田舎に暮らすのも悪くないでしょ!」とホタルが歓迎してくれた気がした。 by kuma

→ ホタルの写真は、デジカメでは撮影できず掲載断念!
posted by うさくま at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月07日

水木さんの本、二冊

少年マガジンで『墓場の鬼太郎』が衝撃の掲載をされて以来、ほぼ半世紀近く水木さんの大ファンだ。水木さんのマンガ、エッセイはもれなく読んできたつもりだったが、図書館で水木しげる大先生の未読本を発見!水木さん本人のエッセイである『生まれたときから「妖怪」だった』と、水木さんをとりまく人々が水木さんの秘密を解き明かそうとする『水木しげる80の秘密』の二冊だ。
早速、借りて帰って一気読みした。

水木本 

「妖怪だった」 は、これまでのエッセイと重なるところがあるとはいえ、『くう、ねる、だいべんきょう』 『千円札のありがたさ』 などなど水木さんの人生に裏打ちされた 「ユカイな人生訓」 が満載されている。一方の「80の秘密」は、荒俣宏氏や京極夏彦氏など錚々たるメンバーによる水木さん「画業50年記念」ものだ。二冊の内容を比べることはできないが、水木さん本人のエッセイの方が当然のことながら断然おもしろい。
もちろん、「80の秘密」も水木さんワールドへのよき案内書となっていて、面白く読めた。とくに末尾を飾る水木夫人布枝さんへのインタビュー記事が出色だ。偉人(怪人?)には、偉人たらしめる伴侶が添われていることがよく分かった。
昨年、園部歴史博物館(南丹市立文化博物館)で開催された企画展「妖怪が大集合!」において水木さんの原画を初めて実見、その印刷かと見紛う精緻な仕上がりに圧倒された。いまも「遠野物語」を連載されているが、その一コマ一コマがすばらしい!米寿を目前にされているという水木さん、願わくば本物の妖怪となって常しえに妖気(マンガやエッセイを通じて)を振り撒きつづけて欲しいと念じている。 by kuma

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2009年06月04日

茶を植え、野菜を植える

丹波は茶所で、周辺の山には茶が自生している所が多い。昨年、五本の茶をゲットしてきて植えたところ、二本が根付いてくれた。で、今年も茶をゲットしに某山麓へ。今年は元気のよさそうな四本の茶をいただいて庭の一角に移植させてもらった。すべての茶が根付いてくれることを祈って、薄めた木酢液をかけたりして慈しんでいる。

庭−茶 茶の木を植えた。

一方、先日種を蒔いたオクラと大葉がいまいち芽吹きが悪い、芽吹いたと思うと丸虫の餌食となって一向に育つ気配がない。そこで、トウガラシとパプリカの苗を買ってきて、南側に造成中の花壇の一角に植えてみた。土質がまだまだ練れていないところなので、チャンと成長するのか心配だ。土壌の悪さを克服して、なんとか育って実を付けてくれるように丹精をしていこうと思っている。

庭-唐辛子 手前の三本が唐辛子。

猫の額ほどのちっぽけな庭だが、草をむしったり、苔の群生を慈しんだりしつつ、「次は何を植えようか・・・」などと楽しんでいる。結果が出るまでは時間がかかるけれど、自然はえ〜ね。  by kuma
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2009年06月02日

大手は新神戸駅の裏、瀧山城址に登る

瀧山城はJR山陽新幹線新神戸駅の裏側、北西の山上にあり、南北朝時代の正慶二年(1333)に播磨の赤松円心が「布引の城」に籠ったというのが最初の記録である。その後、円心の子範資が城主となり、建武三年(1336)、 新田義貞の軍勢を迎え撃った。その後、摂津守護となった範資の子光範が城主となったが、赤松氏の没落とともに瀧山城も打ち捨てられていったようだ。応仁の乱で赤松氏が復活すると再び赤松氏の支配下に入った。その後、赤松氏は衰退、細川氏の家臣柳本賢治によって攻め落とされた。瀧山城は摂津から播磨へと通じる山陽道の要衝に位置するだけに、否応なく戦火にさらされるところであった。
 
瀧山-案内図s
城址案内板の縄張り図

室町幕府の衰退によって下克上の世となり、畿内は幕府管領細川氏分家の阿波細川家の家臣であった三好長慶が牛耳るところとなった。瀧山城は畿内と阿波を結ぶ重要拠点として機能するようになり、長慶は重臣の松永久秀を城主に置いたのである。現在に残る遺構は久秀時代に確立されたものと思われ、久秀は主君長慶を瀧山城に招いて千句連歌や観能の宴を催したことが『細川両家記』に記されている。山上で催された宴会は、その眺めとも相俟って豪勢なものであったろう。

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posted by うさくま at 06:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 摂津の山城