2009年05月31日

足利氏ゆかりの丹波石龕寺を訪ねる

足利尊氏が興した室町幕府は、その草創期、南北朝の動乱と相俟って動揺を続けた。とくに、弟の直義と股肱の家臣である高師直の対立は、尊氏が師直を支持したことで幕府を二分する内訌となった。いわゆる、観応の擾乱である。
 
石龕-遠望s
山上から下界を遠望する

観応元年(1350)十月、尊氏は直義の養子直冬(実は尊氏の庶長子)を討つため京から出陣した。翌年、その間隙を突いて直義は京を攻撃、留守を預かっていた義詮は敗れて尊氏のもとに落ち延びた。合流した尊氏と義詮らは京奪回を目指して進撃、直義軍を破って京に入った。ところが、勝ったはずの尊氏軍から直義軍へ走る者が続出、窮した尊氏らは丹波経由で京を撤退していった。その途中で尊氏は軍を分かち、義詮に仁木頼章・義長兄弟ら二千騎をつけて石龕(ガン)寺(岩屋寺)に留めたのである。その後、中国地方で態勢を整えた尊氏は、高氏らを率いて直義軍と播磨光明寺、摂津打出浜で戦ったが尽く敗戦、ついに高兄弟の出家を条件に直義と和議を結んだ。その結果、義詮も京に戻り直義の補佐を受けて幕府に復帰したが、哀れだったのは高兄弟で、直義派の上杉能憲により武庫川堤において一族とともに謀殺されてしまった。

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2009年05月27日

赤井本家の詰めの城、高見山城

南北朝時代のはじめ、丹波守護職に任じられた仁木頼章がその本城として築いたのが高見山城だ。のちに仁木氏は失態があって守護職を失い、以後、丹波守護職は山名氏を経て幕府管領細川京兆家が世襲した。その間、高見山城は久下氏の支配下にあったようで、戦国時代、久下氏の勢力衰退とともに新興の赤井氏が領するところとなった。赤井氏は白山山麓の後屋を本拠として、家清・直正・幸家兄弟の武勇もあって、氷上郡に一大勢力を振るった。そして、荻野氏を継いだ直正の黒井城、直正の弟幸家の三尾城、本家家清-忠家の高見山城と壮大な城郭ネットワークを築いた。それら城郭群の要に相当する位置にあるのが高見山城だ。
 
高見-城下遠望s
城下を遠望、出曲輪や母坪城が眼下に見え、遠くには黒井城址も望める 
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2009年05月24日

謎多き塩川氏の居城、山下城に登る

摂津の戦国時代、現在の川西一帯を領して勢力のあった塩川氏が知られる。しかし、その実態はまことに曖昧で、実像も明確ではない。そんな塩川氏が拠った山下城は摂津と丹波を扼する位置を占め、東方の能勢氏との攻防を刻む城址だ。資料によれば、縄張りは主郭を中核に西方尾根と東方尾根とに段曲輪を設け、もっとも特筆されるものは主郭後方の尾根を穿つ堀切とある。また、周辺には塩川氏ゆかりの史跡が散在、かつて、界隈は一度訪問したことがある。が、山下城址へは登り口を見ただけで登らずじまいであった。山々は緑も濃く、山城探索のシーズンも終わる頃であり、ダニ体験のあるウサは思い切り渋ったが、それをを押し切って登城してきた。

山下-堀切s
山下城址最大の見所である主郭北端直下の大堀切
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2009年05月20日

途中から一気読み、のぼうの城

和田竜氏の書かれた『のぼうの城』を読んだ。以前より雑誌の広告で見知ってはいたが、手にとって読むには至っていなかった。今回、図書館で借りてきて読み始めると、これが素晴らしく面白かった。舞台は武蔵国(埼玉県)にあった忍城で、戦国大名成田氏の居城だ。主人公は成田家当主氏長の従兄弟長親で、その馬鹿かと思わせるキャラクタから「でくのぼう」の「でく」をとった「のぼう」と呼ばれた。そんなのぼう様長親をとりまく成田家の人々、忍城を攻める石田三成をはじめとした大谷吉継らの人間劇がまことによく描かれていた。
主人公の「のぼう」こと長親と幼馴染で成田家重臣でもある正木丹波守、何やらのぼう長親に思いを寄せているらしい氏長の娘甲斐姫、その甲斐姫に恋する酒巻靭負、丹波守をライバル視する柴崎和泉守、さらに領内の百姓たち。一方、忍城を攻める側の大将石田三成と大谷吉継の友情、仕事はできるが人間性がなっていない長束正家の小役人ぶり、などなどまことによく書けている。石田三成の忍城攻めは見事な失敗で終わったことは歴史に残るとおりで、そのきっかけをなしたのは長親であり、成田家を嫌って領内を出奔した百姓であったことも面白く読めた。
こんな面白い物語とは知らず、いままで見過ごしていたとは・・・!どうしても新人の作品を軽くみてしまう悪しき感性は改めないと、人生、おおいなる損をすることになるな〜、と痛感した次第だ!

のぼう本

クマの場合、歴史小説は海音寺潮五郎氏から司馬遼太郎氏らを愛好したせいか、ややもすれば後進の方々の歴史小説を軽視するきらいがある。「改めなくてはいかん!」と思うのだが、染み付いたものを払拭するのは難しい。しかし、海音寺氏にしても司馬氏にしてもすでに鬼籍の人であり、面白い歴史小説家を待望する気持は強い!が「これは!」といった小説にめぐり合えずにいた。今回、読んだ「のぼうの城」は面白さは抜群ではあったが、和田竜氏の他の小説には食指が動かないのはなぜだろうか?やはり、まだまだ頭の柔らかさが足りないのであろう。
ところで、小説にも書かれている通り、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏の支城群はほとんど落城あるいは開城するなかで、忍城は小田原落城まで持ちこたえた唯一の城であった。戦後、成田氏は改易となり氏長をはじめ一族は蒲生家にお預けとなった。長親も忍城を去ったのち氏長と行動をともにしたようだ。氏長は娘の甲斐姫が秀吉の側妾にあがったことで大名に復活したが、のちに御家騒動が起こり成田家は改易、没落となり一族は四散した。そのようななかで、長親の子孫は尾州徳川家、酒井氏、阿倍氏などの大名に仕えたことが系図から知られる。長親の実像が小説のようであったか否かは分からないが、なかなかの福をもった人物であったことは間違いないようだ。 by kuma

posted by うさくま at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書

2009年05月16日

晴天の下で繰り広げられた葵祭

京都三大祭りの一とされる葵祭を見物してきた。葵祭は山城国一ノ宮であるカモ神社の伝統神事であり、葵紋ゆかりの祭だけに一度ならず見ておきたい祭りだ。カモ神社のある洛北まで京都に住んでいたときならちょっと出かけるという感覚であったが、いまの住まいからは車で早くて一時間半、電車ならゆうに三時間は要してしまう。ちょっとした小旅行である。昨年の葵祭の斎王代は娘の友人だったこともあって、ぜひ、行きたいと思っていたのだがクマのスケジュールミスで断念した。それから一年、ウサを誘って朝一番に京都へと車を走らせた。
 
葵祭−下鴨へ
おりからの晴天に恵まれた祭当日
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posted by うさくま at 07:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 祭り

2009年05月13日

トマトと胡瓜を植える

篠山に引っ越してから、天気の好い日は庭の草むしりに没頭した。それもひと段落したこともあって、永年、ホッタラカシにしていた庭の一角にある畑を耕し、トマトと胡瓜を植えた。まず、近くのホームセンターで買ってきた肥料を混ぜて土を鋤き、畝を作り直し、プチトマトの苗三本と胡瓜の苗二本を植えたのだ。併せて大葉と獅子唐の種も捲いておいた。ちゃんと育ってくれるかどうかは、これからの丹精次第だが、何かを育てるというのは心楽しいものだ。

トマトと胡瓜
 
草むしり、庭木の手入れ、畑づくり、これまで面倒くさい作業と思っていたが、やってみるといい汗がかけて、やっただけの成果が目に見える。これまで、バタバタ、ギズギズと過ごしてきた毎日も面倒なことの連続であったが、草むしり、庭木の手入れ、畑づくりといった面倒さは「ゆとり」に通じているのが快い 。 by kuma
posted by うさくま at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月11日

暇に飽かせて、庭いじりの日々。

現在、浪人中である。ハローワーク暮らしは、年金生活に似ているという輩がいらっしゃた。が、年金は死ぬまで給付を受けられるが、失業保険は期限付きのものであって実態は全然違うものだ!働く意欲も気力もありながら百年に一度という経済恐慌の煽りを受けて職を失ったわけで、何やら据わりの悪い毎日を送っている。で、庭の草むしりをやり始めたら、これがなかなか面白い。単純作業ではあるが、意外な達成感があるのだ。

20095月の庭

これまで引越し人生の連続で、やっと自分の家に落ち着いたいま、庭木を手入れしてみたり、草を引いたりしている。ウサに言わせると「何かにとりつかれた」かのように、気が向くと庭いじりをしている。やりだすと、あれこれと気になるところが出てきて、アプローチのはがれたタイル貼りもやってしまった。いままで、こんな時間を持ったことがなかっただけに、これはこれでハローワーク暮らしがあったればこそのことと思えば複雑である。 by kuma
posted by うさくま at 20:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月10日

多紀と氷上の国境に屹立する三尾山へ

かつての多紀郡西紀町(篠山市)と氷上郡春日町(丹波市)の境界にある三尾山、西多紀アルプスとも呼ばれるその山容は見上げるような高さだ。そして、その山上には戦国時代の丹波に勇名を馳せた赤井直正の弟である刑部大輔幸家が築いた山城が残っている。初夏を思わせる晴天の下、三尾城址を攻略しつつ、西多紀アルプスを縦走してきた。
 
三尾-遠望
 
三尾山は手頃な山登りのコースとしても人気の山で、登山道は春日町方面から、篠山の西紀方面などから設けられているが、ウサクマは春日側中山の三尾山登山口から山上を目指し、三尾山から鏡峠に至る尾根を上り下りしながら、登り口である中山へ戻るコースを選んだ。
 
三尾-標識 三尾-やれやれ地蔵 三尾-標識2
 
登山道はよく踏み固められ、標識も要所に立てられ迷うことはないが、そのひたすら続く急坂には流石にきつかった。やがて、山上の尾根に到着、そこは既に三尾城址の一部だ。標識に展望台と書かれた西出曲輪にたどり着くと、そこからは見事なパノラマが展開していた。文字通り、春日町一帯が眼下に広がり、三尾城の本城にあたる黒井城も遠くに望むことができる。しかし、曲輪というにはあまりに貧弱で、おそらく見張り台的な砦が設けられていたものであろう。東出曲輪途中に祀られている『やれやれ』地蔵に、登山の無事を祈って三尾山上へと登っていく。
 
三尾-春日眺望
 
やがて、三尾城址の東曲輪群に到着する。土塁が設けられ、腰曲輪、ひな段状の曲輪が設けられている。一帯は東出曲輪群の西を固める曲輪群であり、そこから、さらに三尾山上へと階段状に曲輪が築かれている。それぞれの削平地の比高差は4m前後で、決して広くはないが見事な切岸である。やっと山上にたどり着くと、腰曲輪をめぐらした天守台を思わせる高台が築かれ、そこに三尾城址の石碑が立っている。若干、木々によって阻まれているが、展望は悪くない。南方面には夏栗山、黒壺山が聳え、東方には滝連山が聳えている。たしかに眺望は素晴らしいが、この峻険な山上に築かれた城では臨機応変の戦いを展開することは難しかったのではないか。三尾城は明智光秀の丹波攻略の前に落城したが、攻める明智方も、守る赤井方も戦闘の前に上り下りだけで疲労困憊になったのではなかろうか。
 
三尾-土塁 三尾-切岸 三尾-石碑
 
三尾-主郭腰曲輪 三尾-三尾山 三尾-鏡峠
 
山上の城址で休憩をとってのち、鏡峠を経て登り口を目指して下山を開始する。三尾山からの下山コースは急坂で、尾根の途中には覗き岩があり上ってみると肝の縮む景色が展開する。多紀連山とともに修験者が駆け回っていた山であったことが、実感されるところだ。とはいえ、山道は軽快で佐仲からの登山道を横目に鏡峠へ、そこからひたすら山道を下っていく。鏡峠までの風趣に富んだコースに比べると、山陰ということもあってただ歩くばかりというコースである。やがて、林道に出ると、さらに大味なコースとなり、疲れた足がさらに疲れを増す心持がしてくる。見尾山は軽快な山歩き、戦国山城の探訪などなど一様でない楽しさが味わえる。コースを替え、季節を替えて登れば、それぞれ違った味わいが感じられる山とみた。つぎは篠山市西紀側の鏡峠への道から登ってみようかなどと考えている。 by kuma
posted by うさくま at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2009年05月07日

もう一つの内藤氏が拠った丹波藁無城

丹波の内藤氏といえば、守護細川氏の下で守護代を勤めた八木城主の内藤氏が知られる。その内藤氏の分かれが拠った城が、園部船井後方の参上に残る藁無城址だ。藁無城址は二年前、蜷川氏の居城蟠根寺城址と菩提寺、内藤氏の家紋探索を兼ねて訪問したが、そのときは船井界隈を歩き回っただけで城址には登らずに帰った。
以後、何度か園部に行くことはあったものの、ついに藁無城は登らずじまいであった。今回、にわかに藁無城址に登ろうと思い立ち、ウサを誘って登ってきた。藁無城址は内藤氏が築いた山城で山麓にある林松寺は往時の居館跡といい、周辺には内藤氏の家臣らの屋敷が並んでいたという。城址へは、寺院後方にある墓地から登り道が葛篭折れに山上へと続いているらしく、まずは治宮神社を経て墓地へと向かった。
 
藁無−遠望
藁無城址を見る (2007年1月19日)
 
道らしきものがあるにはあるが、すべて途中で消滅している。改めてお寺の住職さんに登り道を聞いたところ、『途中まで薄い山道があるが、そこから先は直登しかなですよ』とのことだった。それではと葛篭折れの山道を登り、さらには立ち木をつかみながら山上を目指した。
 
藁無-林松寺 藁無-石垣 藁無-登り道
佛光山林松寺、後方が藁無城址  林松寺の石垣  城址に続く墓地への道
 
山上に近づくと大小の岩が散在、石垣が崩落したのか?と思わせる景色が広がる。やがて、南端の切岸が見え、城址に分け入ると三角点が立っている。三角点後方のやや高いところが本丸址で、そこから北方へ曲輪が連なっている。それほど大きな城ではないが、段状に続く曲輪、主郭の東西に設けられた腰曲輪などに石垣跡が残っている。
 
藁無-城址に 藁無-主郭 藁無-腰曲輪
南端曲輪の切岸  主郭を見る  腰曲輪とを隔つ石積
 
山上の城址一帯は樹木が生い茂っていて展望は利かないが、かつては南方に蜷川氏が拠った蟠根寺城が見え、さらにその南には園部の町が遠望できたっことであろう。眼下には園部から日吉を経て美山に通じる街道が通り、また東方には桂川の上流にあたる大櫃川が流れている。小さな城ではあるが、なかなかの要害の地を選んで築かれたことが分かる。城址を歩くと風化しかけているものの切岸も残り、土塁も確認できる。さらに北方尾根に穿たれた堀切は見事なもので、石垣の存在と併せて先進の技術をもって築かれている。さらに、北西部に崩落跡と思われる穴があり、見方によっては兵糧などをおさまえる蔵があったのではと思わせる。
 
藁無-北曲輪 藁無-堀切 藁無-崩落地
主郭北の曲輪  北尾根を穿つ見事な堀切  兵糧蔵を思わせるが崩落跡か?
 
藁無城の主であった内藤氏に関しては、子孫にあたる内藤家に『内藤八木軍記』『内藤丹波年欄代々記』といった古記録が伝わっている。それらによれば、八木城の内藤氏との間で骨肉の争いが起こり、藁無城は八木内藤氏の攻撃を受けた。また、細川二流の乱における活躍で将軍足利義晴から感状を賜ったといったことが書き残されている。しかし、丹波内藤氏の場合、内藤如安がキリシタンであったことからか、江戸時代において歴史がかなり改竄されているという。それもあって、八木内藤氏、藁無内藤氏ともにその歴史は歯切れの悪いものとなっている。しかし、いまも藁無城のある船岡界隈には内藤氏の子孫と伝える家、家臣の後裔と伝える家が存在し、内藤氏ゆかりの「龍鼓」「下り藤に内文字」などの家紋が残っている。そこには、紛れもなく戦国内藤氏の余燼が感じられた。 by kuma
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2009年05月04日

山上に見事な石垣、丹波須知城址

昨年の夏、琴滝を見物してのち城址を目指したが途中で道を見失って挫折した。その後、丹波、山城、但馬の城址めぐりを続けながら山城の資料を収集、須知城の周辺図、縄張り図などを入手、今回、改めて須知城址攻略に再チャレンジした。
 
須知ー遠望01
明石集落入り口方向より城址のある山上を見る。
 
須知城址は京都縦貫道の終点丹波ICの左手の山上にあり、かつての京街道を口丹波と奥丹波に遮断する要衝の位置を押えている。国人須知氏が築いたといわれ、すでに南北朝時代のころより記録にあらわれる。戦国時代のはじめの十五世紀末、丹波船井郡を中心に大規模な国人一揆が起こったが、須知氏は一揆の中心的存在として須知城に立て篭もり守護細川氏に抗戦した。乱は国人側の敗北に終わり、須知氏は没落したが、その後も再起を繰り返し戦国時代末期まで須知を領したようだ。明智光秀の丹波攻略に際しては明智方に参じたが、何故か、光秀によって滅ぼされてしまった。その後、須知城は光秀によって手が加えられ、石垣が多用された織豊系城郭に生まれ変わった。城址へは琴滝より登山道が設けられているが、やはり、かつての大手道である北側山麓より登ることにした。古い地図を見ると「殿屋敷」という地名があり、そこを登城のッポイントとし行ってみると、かつて居館があったと思しき風情のところであった。そこから分け入り、とにかく山上を目指した。思った以上に明確な山道だったが。城址近くで消え入りそうになり、城址の西方の尾根にとりつき、尾根伝いに城址へたどり着くことができた。途中、須知城の歌なるパンフレットが置いてあり、城址へのいい道標となった。
 
須知-チラシ 須知-西郭 須知-切岸
登山道に置かれたチラシ  西曲輪の説明図  腰曲輪と二の曲輪切岸
 
城址西端の急な切岸を登り、西曲輪にたどり着く。見ると、最近行われたという見学会の名残であろう紙に書かれた説明図が張られていた。それは城址の随所に貼ってあり、探索の助けとなったが紙ではなく耐久性のあるものならば、これからの城址探索者への素晴らしい贈り物になったであろうにと残念。さて、城址は西から東に続く尾根上に、曲輪が設けられている。保存状態は比較的きれいなもので、樹木も刈り取られ、探索に難儀することはなかった。広い西曲輪から三の曲輪の切岸を越えると前方に石垣が見えてくる。二の曲輪の石垣で、右手には虎口が設けられ石垣の上は武者走りとなっていた。主郭も石垣が築かれ、崩れているものの虎口が確認できる。二の曲輪・主郭とも虎口は石垣で築かれ、なかば崩れかけているものの、素晴らしい遺構である。主郭の南東は土塁がめぐらされ、もっとも高い東面は三メートルを越える規模である。土塁の説明図を見ると「土塁の向う、高さ5m、落ちたら戦死」と書いてある。で、土塁を北側から巻いて東曲輪群へと進むと、主郭東方に築かれた石垣が目に飛び込んできた。説明図によれば「高さは5m、丁寧な野面積み、中には栗石」とあり、こんな山上に素晴らしい石垣、文字通り城址最大の見どころであった。
 
須知ー石垣 須知ー虎口石垣 須知ー大石垣
二の曲輪石垣  主郭の虎口石垣  主郭東面の見事な大石垣
 
須知ー堀切 須知ー東石垣 須知-囲み土塁
東曲輪とを隔つ堀切  東曲輪の石垣  東曲輪の囲み土塁
 
石垣の東方には堀切が穿たれ、その先に東曲輪群が連なる。主郭までの西曲輪群に比べると、樹木も多く、いささか荒れている感は否めない。とはいえ、切岸の石垣、囲み土塁、上り土塁などの遺構が残り、見るべきところは多かった。殿屋敷の遺構、山上の城址遺構、そしてそれをつなぐ登り道が整備されれば、上野にある城址とセットにして立派な戦国史跡ができるだろうにと思われ、自治体が着目されることに期待したいところだ。(あとで調べると、上野城址は乱開発の手が伸び、相当遺構が崩壊してしまったとのことだ。残念!)

須知-城下遠望 須知-玉雲寺 須知-能満神社
東曲輪からの遠望  玉雲寺から城址を見る  上野の能満神社
 
城址からの見晴らしは決してよくないが、西曲輪からは樹間越しに京都縦貫道が見え、それぞれの曲輪からも樹間越しに集落が見える。かつて、城として機能していたときは樹木も伐採され、口丹波、奥丹波ににらみを利かせていたことが実感できた。城址の南山麓には、室町時代のはじめに須知氏が菩提寺として創建した玉雲寺、上野には戦国時代に須知左馬守が社殿を修復したという能満神社(訪問:2008年7月)など、須知氏ゆかりの史跡が散在している。城址を訪ねたのち、それらを探索するのも楽しい時間であった。 by kuma
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2009年05月03日

豊臣秀吉に抵抗した但馬轟城址

昨年、山名氏の此隅山城有子山城、垣屋氏の宵田城、田結庄氏の鶴城、宿南氏の宿南城などなど但馬の戦国山城攻略に汗を流した。しかし、垣屋氏の本城とされる楽々前城は攻略途中で道を見失い挫折、垣屋豊続が豊臣軍を迎え撃った轟城も準備不足で登山を断念。今回、改めて両城攻略を目論んで豊岡に遠征してきた。轟城址は山上にある秋葉神社への参道により容易に城址へ到着できたが、楽々前城址は山麓の垣屋氏の菩提寺跡から続くという登り道が発見できず再び挫折とあいなった。
 
轟城-遠望 
垣屋氏の菩提寺-蓮華寺から城址を遠望
 
轟城址主郭には秋葉神社が祀られており、神社に続く参道がそのまま登り道となっている。お世辞にも整備された道とはいいがたいが、まず迷うことなく城址東南端に穿たれた堀切を経て東南曲輪にたどり着けた。そこから主郭方向に段曲輪が続き、参道はさらに主郭へと葛篭折れに続く。主郭は倒木が目立つが秋葉神社を中心としてそれならいの広さだ。主郭から東北に曲輪が続くが、それぞれ見事な広さのもので、東北端には畝状の堀切が設けられている。一方、主郭北西にも曲輪が設けられ、大堀切を経てさらにその北西方に曲輪が設けられている。主郭と腰曲輪、またそれぞれの曲輪を区切る切岸も見事な高さを有し、羽柴軍を迎え撃った城址だけのことはある規模の大きさだ。

轟城-堀切 轟城-主郭 轟城-二曲輪
東南端の尾根を穿つ堀切  主郭を見上げる  広い二の曲輪

轟城-石仏 轟城-石垣 轟城-大堀切
当時のものか・石仏が  石垣跡を思わせる遺構  北西尾根の大堀切
 
轟城址は垣屋氏一族の豊続が拠った山城だが、垣屋本家は日高町の楽々前城に拠っていた。昨年の攻略失敗もあって、今回、改めて資料を用意してリトライした。いわゆる垣屋氏の菩提寺である隆国寺が最初に建立されたという大手方面からの登城を目論んだのだ。ところが、その寺院跡が分からない。地元の方々にあれこれと聞いて、やっと、寺院跡を発見した。そこは意外な広さで、そこかしこに石垣も残っている。主家山名氏を凌ぐ勢いを有した垣屋氏の力のほどが知られるものだ。しかし、地元では省みられrことはないのか、荒れるにまかされているのが惜しい!さて、そこから楽々前城址への登城路を探したが、夕暮れも迫り、二度目の攻略も挫折とあいなった。
 
楽々前-寺院切岸 楽々前-寺院古墳 楽々前-寺院石垣
寺院跡の高台  古墳上には鐘楼があったとのこと  石垣が随所に残る
 
地元の人によれば、主郭近くまで林道が通っているとのことだが、ここは、やはり大手道からにこだわっていきたい。この秋までには、三度目のアタックを目論んで作戦を練っているところだ。 by kuma
 
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2009年05月01日

ネットが通じてMacの良さを知る

篠山に引っ越して一週間、やっと、ネットが通じた。
これまで、NTTのOCNを利用していたのだが、なんと!篠山の住居ではNTTのOCNは利用できないとのこと。『ダイアルアップならいけますが・・・』、とNTTのお姉さんはすまなさそうに言う!いまさらアナログはないし、調べたところ「eo光」ならいけるとのことだ。で、eo光に決めたわけだが、これが、どうしたわけかネットに繋がらないのだ。工事のお兄さんは『工事だけで、接続はわたしらやってません』と言って帰ってしまう!一昼夜、あれこれやってみるもなんともならない。で、ヘルプデスクに電話してWindowsはどうにか接続ができたが、Macの方はなんともならない!挙句にヘルプデスクのお姉さんは『Macの方に直接聞いてください』と匙を投げ出してしまった。そこで、Macに電話したところ、eo光につなぐとたまに起こるバグだという。解決法を教えてもらって何とか繋がったが、ここまで二日を要してしまった。テレビの宣伝では簡単に繋がるなどと言っているが、年寄りの方々にはちょっとトラブれば、手も足も出ないこと請け合いだ。かくしてネットが繋がったわけで、Macはイレギュラーな接続をしていた。ところが、ほどなく立ち上げると同時にネットに接続しているではないか!?突然、解決していたのだ・・・。コンピュータって、ネットって、本当に訳の分からない代物だ。

クマの部屋 

ところで、Windowsは立ち上げるたびに、ネット接続を選ばなければいけないのは何とかならないのでしょうかeo光さん。シェアは断然低いけれど、Macはユーザフレンドリーなマシンである。いつも感じることだが、Windowsはお堅いビジネスマンのようで可愛くない、比べて自由業っぽいMacはやっぱり馴染みやすいかも。しかし、「eo光」ちゃんと200MB出てるのだろうか、ずいぶん遅いように感じるのは気のせい? by kuma
posted by うさくま at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記