2009年04月21日

八上城下の寺院墓所で見つけた家紋

波多野氏の居城である八上城址に登ったとき、殿町の松谷寺、八上上の十念寺の墓所を訪ねた。そこには、かつての波多野氏にちなむ家々の墓があるのではないか?あれば墓石に刻まれているであろう家紋をぜひ見たい!と思ったのである。

殿町の松谷寺は柏隆山と称し、波多野氏の城下町であった殿町の高城山山麓にある禅宗の寺院だ。 殿町の高城山麓の集落は、戦国時代の波多野家家臣団の屋敷跡をそのまま使ったようで、いまも石垣が諸所に残っている。松谷寺はそのような殿町の山側にあり、波多野家とのゆかりを感じさせる所だけに墓地の墓石に刻まれた家紋への期待は高い。

八上−松谷寺

境内を経巡ると、井関家が「丸に剣四方木瓜」「立面高」、波々伯部家が「下り藤」「丸に横木瓜」、柴田家が「九曜」、細見家が「丸に三つ星」といった家紋が見られた。井関家は渋谷氏らと並んで波多野氏の重臣にその名字があり、波々伯部家は波々伯部神社近くの淀山城を本拠に一勢力をもった家が知られる。波々伯部氏の家紋は室町時代の記録に「松喰対い鶴」と残されているが、墓地の墓石群には見当たらなかった。武家を捨てて帰農したときに家紋を変えたものであろうか。細見氏は本郷に城を構えた細見将監が波多野氏に属して活躍、その名字は丹波一円に広まり「三つ星」紋は細見一族の代表紋として有名なものだ。今回、墓に彫られた家紋を見て回ると、名字は同じでもそれぞれの家の紋は一様ではなく、名字の一部を角字にしたものが多かったのも印象的であった。
 
下り藤 九曜 三つ星
左から   下り藤  九曜  丸に三つ星

八上上の十念寺は、ずばり高城山を称する浄土宗の寺院で八上城址北方山麓に位置している。境内の後方を見上げると八上城址の主郭が山号そのままに控えている。
 
八上-十念寺

境内の墓地は、まことに古式蒼然としてもので、古い墓石も散在している。それぞれ家紋を拾っていくと、波多野家は「丸の内に十字」、鷲尾家は「五つ葉木瓜」、山内家は「細三つ柏」、中川家は「中川柏」、そして、珍しい名字の五十川家が「下り藤に横木瓜」などなどだ。十字紋は轡と混同されることが多いが、波多野家のものは丸の内に十字であり間違いなく十字紋である。山内家の三つ柏は土佐山内氏と同じ葉が細い図柄のもので、土佐山内氏を丹波出身とする説からも同族と思われる。中川家も豊後竹田中川家と同じ図柄で、中川柏ととくに称されるものである。 中川家は摂津から起こった中川清秀で勇名だが、一説には亀岡の馬路から出た家とするものもあり、こちらも同族であろうか。

丸十字 五葉木瓜 細三つ柏
左から  丸に十字  五葉木瓜  細三つ柏

中川柏 藤に木瓜
左から  中川柏  下り藤に横木瓜  

それぞれの寺院の墓地は、都会などに乱開発される●●霊園、■■墓苑といった所とは違って、地域に根ざした家々の墓石ばかりが祀られている。それだけに、遠いむかしからの名字と家紋が伝えられていることが多い。遠く戦国時代に思いをはせながら墓石の間を逍遥するのも楽しい時間だが、人から見れば怪しいおっさんと思われても仕方がない行動ではある。  by kuma

posted by うさくま at 07:47| Comment(3) | TrackBack(0) | 家紋

2009年04月19日

八上城址、三度目の攻略

今回で三度目になる八上城址攻略、最大の目的は朝路池の西方曲輪に穿たれた大堀切の西南下方にある広い平坦地だ、平坦地から南西に伸びた尾根の先端には奥谷城址があり、城下町であった殿町の谷が広がる。
 
八上−法光寺01
八上城址北西尾根から法光山城址を見る

八上城の場合、八上内の春日神社から山上に続く登山道に踏み込み、北西尾根をたどりながら主郭へ。そして、蔵屋敷から朝路池、北東尾根に連なる芥丸、西蔵丸を経て下山するというのが一般的な城址探索であろう。いわゆる国道372号線から見える高城山を辿っていくコースだ。たしかに、八上城址のダイジェスト的な楽しみ方としては十分ではあるが、それは八上城址の半分も体感したことにはならない。八上城址は高城山一帯に縄張りがめぐらされており、北西、北東に加えて東南の尾根にもそれぞれ出曲輪が設けられている。さらに、主郭西方にある右衛門丸北方に段曲輪、西方にも段曲輪が設けられている。それぞれ見落とされがちだが、広さも十分で、曲輪の切岸、堀切など見るべきところが多いところだ。そして、今回目指した主郭南方にある平坦地、この遺構は奥谷道山腹遺構と名づけられ、その存在によって八上城址はより懐の深い城であったことが認識されたようだ。今回の登城に際しては、登山道の途中より北西尾根に階段状に設けられた曲輪群の藪をこぎつつ、右衛門丸を目指した。そして、右衛門丸北方にひな壇状に設けられた北曲輪の探索、ついで西方に連なる曲輪群を探索する。西方の曲輪は相当な広さのもので何やら庭園跡を思わせるところもあり、城主の家族が住んでいたところか?と思わせる風情があった。三の丸、二の丸、そして主郭へと続くが、たしかにここまでの規模はそれなりものであるが、明智軍の攻囲に対する兵糧や兵員の確保という点で心許なさは隠せない。主郭の下方にある蔵屋敷も小さなもので、さらに水の手の朝路池一帯をみてもそれほど広いところではない。そう考えたとき、奥谷道山腹遺構がその存在感をいや増してくる。
 
八上−北堀切 八上-北曲輪 八上-西曲輪
北西尾根の堀切  北曲輪の見事な切岸  居館址を思わせる西曲輪
 
八上-二の丸 八上-主郭 八上-朝路堀切
二の丸から見た主郭の切岸  主郭の石垣  朝路池西方尾根曲輪の堀切

奥谷道山腹遺構へは、朝路池の南西にみえる堀切を越え、そこから堀切沿いに下っていく。自然地形か?と思わせる場所だが南尾根との間に土塁が設けられ、東方尾根に続く曲輪が防御するように囲みこんでいる。さらに、西方尾根を下っていくと奥谷城へと続き、その先は城下町である殿町が広がっている。八上城址は主膳屋敷の遺構の存在と西尾根→主郭→東尾根という曲輪の連なりもあって北方が正面と思われがちだ。しかし、城下町である殿町の関係を思うと、やはり、殿町とのつながりが城址にあるほうが自然だ。八上城は北方を攻守の面とし、南方を城下町と連携しながらの兵站面として機能したと思うと、単純な戦国山城ではない姿が浮かび上がってくる。

八上-南曲輪土塁 八上-南曲輪 八上-南尾根曲輪
奥谷道山腹遺構の土塁  広さも十分な奥谷道山腹遺構  東方尾根曲輪の切岸

八上城址は、いまの住まいから車ですぐということもあり、これからも折をみて探索を続けていきたいところだ。ただ、丹波名物の獣除けの柵には泣かされた。奥谷道山腹遺構を探索したのち、奥谷城址を目指して尾根を下っていたところ、城址を目前にして獣除けの柵が。攀じ登るには不安だし、入り口を探してひたすら柵ずたいに歩くことしばし、なんとか出口にたどり着いたが、そこは奥谷城址からは遠くかけ離れたところであった。秋の松茸にからむ入山禁止の立て札と獣除けの柵、仕方のないこととはいえ何とかならないものだろうか?一方、山麓の寺院には波多野氏をはじめ、波多野氏と関わりを有したと思われる家々の墓があり、そこに刻まれた家紋を見るのも八上城址探索の楽しみの一つだ。 by kuma
posted by うさくま at 18:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2009年04月18日

三月の愛宕山も穏やかな日々

暖かい冬だった今年、愛宕山は三月ものんびりとした佇まいの日が多かった。

愛宕-0301 愛宕-0302 愛宕-0303
三月一日   三月二日  三月三日-ひな祭りの愛宕山
 
愛宕-0304 愛宕-0305 愛宕-0305
三月四日  三月五日  三月七日
 
愛宕-0308 愛宕-0310 愛宕-0311
三月八日  三月十日  三月十一日
 
愛宕-0313 愛宕-0314 愛宕-0315
三月十三日  三月十四日  三月十五日  
 
愛宕-0318 愛宕-0319 愛宕-0320
三月十八日  三月十九日  三月二十日
 
愛宕-0321 愛宕-0322 愛宕-0323
三月二十一日  三月二十二日  三月二十三日
 
愛宕-0325 愛宕-0328 愛宕-0331
三月二十五日  三月二十八日  三月三十一日
 
  本当に雨の少ない暖かい毎日が続き、雪景色の愛宕山を見ることもなく春を迎えた。そして、桂から引っ越すことが決定し、愛宕山を見るのも遺すところ一ヶ月足らずとなってしまった。足掛け三年、出かけるとき、真正面に見えていた山だけに一抹の寂しさを禁じえない。しかし、所詮は仮住まい、引っ越す日まで愛宕山とは否応なく付き合っていくわけで、いまも愛宕山の撮影を続けている。 by kuma
posted by うさくま at 07:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛宕山

2009年04月17日

二月の愛宕山を振り返る

三月のはじめに東山の如意ヶ嶽城址に登ってから、立て続けに京東山に残る戦国山城めぐりに汗を流した。その結果、二月の愛宕山をアップしないままに、なんと四月を迎えていた。で、遅まきながら二月の愛宕山、日々の変化を振り返ります。

愛宕0201 愛宕0202 愛宕0205
0201:見事な虹がかかった 0202:沸き立つ雲 0205:快晴の愛宕山

愛宕0207 愛宕0211 愛宕0212
0207:晴天が続く 0211:黄砂に霞む 0212:連日の黄砂

愛宕0214 愛宕0217 愛宕0218 
0214:バレンタインデーの怪しい雲 0217:久しぶりの雪雲 0218:頂上付近には積雪が

愛宕0220 愛宕0221 愛宕0223 
0220:曇りの日が続く 0221:うっすら晴に霞む 0223:まるで嵐を呼ぶような雲

愛宕0225 愛宕0226 愛宕0228
0225:曇りの朝 0226:黄砂に霞む 0228:見事に晴れた月末の愛宕山
 
今年の二月は比較的暖かい日が続いたこともあって、愛宕山が雪景色になることは少なかった。とはいえ、毎日、愛宕山を取り巻く雲のさまざまな表情が楽しめた。どちらかといえばポツンとした山容だが、なかなか表情の豊かな山ではある。 by kuma
posted by うさくま at 15:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛宕山

2009年04月13日

戦国時代はそんなに甘くはないで!

大河ドラマ「天地人」が人気を呼んでいるらしい。 
戦国時代好きのクマとしては、ストーリーにいささか承服しかねるところもあるが努めて見ている。時代劇は往時を再現できるはずもなく、現代風な解釈を加えつつ、虚実が取り混ぜられてできあがっていることは理解しているつもりだ。しかし、歴史ドラマと銘打った場合、主人公に為するあまり史実を曲げることはあってはならない。以前、直江兼続と上杉景勝のヘアスタイルがおかしい(月代でない)ことを指摘したが、あれは、コミケで流通しているマンガの延長と思えばそれだけのことだ。しかし、ここ数回のストーリー展開には、「え〜ッ、それはないやろ・・・!」と、いささか驚かされている。
謙信死後の上杉氏において最大の危機となった「御館の乱」が、昨日、玉鉄演じる景虎の死をもって景勝方の勝利で終わった。御館の乱において上杉家中は二分し、景勝方には上・中・下越の国人領主のほとんどと上田衆が味方した。一方、景虎方には上杉十郎、本庄秀綱、北条高広ら謙信在世中の有力者、実家の小田原北条氏会津の葦名氏甲斐の武田氏らの戦国大名が味方した。緒戦は本庄秀綱の先制攻撃、すぐれた外交手腕などもあって景虎方優位に展開した。その局面を打開して景勝方有利に転じるきっかけとなったのが、武田勝頼との和議の成功であった。
ドラマでは、武田氏との和議成功の立役者は直江兼続となっていた。当時、まだ十代の若造である兼続が交渉に行ったところで武田方が受け入れるはずもない。現代でもそうだが、外交は他国にも名の知られた大物が出て行かなくてはまとまるものもまとまらない。史実としては、上杉家中の大物国人で景勝に味方した新発田長敦の外交手腕の結果であった。また、長敦の弟五十公野重家、一族の竹俣慶綱らが軍事的に活躍したことで景勝方は次第に劣勢を盛りかえしていったのである。ドラマの構成上から仕方のないこととはいえ、兼続ら上田衆ばかりが活躍しているのは、見ていて「おい、それはないやろ!」と突っ込んでしまった。
武田勝頼が景勝と和議を結び、実家北条氏からの援軍も雪のため足止めをくったことで、景虎は追い詰められてしまった。そこに、景勝と景虎の和議を取り持とうと立ち上ったのが、前関東管領の上杉憲政であった。憲政は景虎の長男道満丸を伴い、和議仲裁のために春日山城へ向かったところを景勝方の兵に道満丸ともども斬殺されてしまった。ドラマでは和議を嫌う景虎方分子の仕業と描かれていたが、それによって景虎方が有利になるはずもなく、たとえ景虎方の勝利に終わったとしても長男を殺害した者が許されることなどありえない。しかも、犯人は景虎に付いて越後にきた遠山氏のように匂わせていた。景虎の一番の味方たる小田原からの随伴者が、そのような浅はかなことをするとは到底思われないことだ。勝利が見えてきたことで和議を避けたい景勝方が、本来なら主筋にあたる上杉憲政の介入を斥けると同時に亡き者にせんとして、道満丸と一緒に始末してしまったとみた方が自然だ。景勝方(景勝本人、兼続の思いはともかくとして)にすれば、乱が終わったのちのことを考えれば、障害となるものは少ないにこしたことはない。戦国乱世においては当然の思考というべきで、心に痛みはあったとしてもドラマのようにメソメソ泣くはずもない。泣いたとすれば空涙であろう。
さて、憲政の死で万事窮した景虎は小田原を目指して越後を脱出しようとし、シンパである堀江宗親が拠る鮫尾城に逃れた。ところが、宗親は景勝方の安田顕元の裏切り工作を受け入れており、ここに景虎は無念の自害を遂げることになるのである。文字通り、四面楚歌、袋の鼠状態のなかで最期を迎えた景虎、まことに残念無念なことであったろう。嫁さんの相武紗季を抱いて、心静かにあの世に旅立つなんてことはありうべくもないことである。
ドラマは面白くなければ・・・!ということはよく理解できる。より多くの視聴者をゲットしたいという制作側の思いもわかる。しかし、史実を曲げてまで主人公を際立たせ、ドラマを面白くしたいというのは「曲学阿世」に似たいやしい心持であろう!。天下のNHKなんだから、ビシっと史実を踏まえた骨太(月代もキチット剃った!リアリティのある)なドラマづくりをしていただきたいものだ。見るたびごとに史実が曲げられ、メソメソした小僧っ子の兼続が活躍する!戦国時代はそんな甘い時代では、おまへんで!大河ドラマの語る話を史実と思っている人が多いと聞くだけに、もっとチャンとしたドラマを制作、放映すべきではなかろうか! by kuma
posted by うさくま at 17:49| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラマ(TV)を楽しむ

2009年04月12日

蹴上から大文字、東山へ

むかしからの親友であるH夫妻と、われらウサクマの四人、蹴上から如意ヶ嶽城址→大文字火床を経て法然院、哲学の道を東山まで歩いてきた。

東山-如意遠望
平安神宮鳥居前の橋上より、如意ヶ嶽城址方向を遠望

朝十時に蹴上駅に集合、まず日向大神宮の内宮、外宮、奥の院の天の岩戸を見ながら東山トレイルコースへ。桜は満開を過ぎて散り初めといったところ、天気は快晴、初夏を思わせる気候だが山道は爽快そのものであった。

東山-日向鳥居 東山-外宮 東山-岩戸
蹴上駅すぐ左手に日向大神宮の鳥居  外宮社殿へ  天岩戸から外界を見る

日向大神宮は京都最古の宮といわれ、第23代顕宗天皇(485〜487:古墳時代)の御代に筑紫日向の高千穂の峰の神蹟を移して創建されたと伝えられる。内宮と外宮を中心に多くの境内末社が祀られ、なかなか荘厳な雰囲気が充ちている。奥の院にある天岩戸はくぐり抜けると開運・厄除けのご利益があるが、心邪なるものは通ることが叶わないといわれる。心清らかな一行四人が、難なく通り抜けたことは言うまでもないだろう。

東山-トレイルに 東山-山ツツジ 東山-山科遠望
天の岩戸うらのトレイルコース分岐  山ツツジが見事に満開  モヤに霞む山科市街を遠望

東山-堀切道 東山-土橋道 東山-城址に
堀切のような道  土橋を思わせる  如意ヶ嶽城址東端下の四つ辻に到着
 
日向大神宮をあとに山上を目指す。トレイルコースは標識が要所に立てられ、道もよく踏み固められていて迷うことはない。おりからの晴天と桜・ツツジも満開、山登りには絶好の休日だけに、トレイルコースは老若男女の登山グループで一杯だ。
 
東山-城址東土橋 東山-城址東横堀 東山-東土塁木戸
如意ヶ嶽城址東尾根を穿つ三重堀切(左・中)  主郭東端と東曲輪群を隔つ土塁跡

東山-三角点 東山-北面横堀 東山-北面曲輪群
山頂の三角点(466m)  主郭北東部の山麓を取り巻く堀切  北面の曲輪群の切岸

三月のはじめ、鹿ケ谷から登るコースで如意ヶ嶽城址から中尾城址をめぐったが、のちに資料を見直すと如意ヶ嶽城址最大の見どころは城址東端に穿たれた三重の堀切と土塁であることを知った。今回は城址に着くや、まず三重の堀切と土塁を探索する。土塁も明確で堀切群の保存状態も良好、文字通り見事な遺構で、よくぞ残ったものだ!と大満足だ。時間を見るとちょうど昼時、昼食場所を探しがてら主郭へ。主郭一帯は弁当を広げた家族連れ、登山グループで満員状態だ。北面の曲輪群に格好の場所を発見、往時の武士たちの気分を味わいながら弁当タイムと洒落込む。で、今回のサプライズは「冷えた缶ビール」。保冷バッグにウサがためていた保冷剤を詰め込んで担いできたのだ。その美味さたるや、これまで飲んだビールのなかで最高!だった。食後は、Hくんと城址探索だ。土塁、堀切、曲輪などなど、その規模の大きさは、さすが、将軍の拠った城址だ!と改めて実感させられる。

東山-大文字火床 東山-大文字下山 東山-法然院山門
火床から京都市街を見る  細い階段道を大文字から下山  法然院山門に到着

城址をあとに尾根道を大文字火床へ下って行く。すれ違う火床方面からの登山客は、なにやら普段着のような格好だ。おそらく、銀閣寺を見物してのち、大文字山にも登ろう!といった気軽な思い立ちで登ってきたものだろうが、山はそんなに甘いもんではおまへんで!火床にいたオジサン(と言ってもクマよりは若い!)から頂戴した大文字の歴史に関するパンフレットを見ながら、オジサンの説明を拝聴する。何といっても、火床から見る京都市街の風景は一大パノラマで、今月末に京都から引っ越して行くウサクマにとって感慨無量のものであった。
火床からは大文字の左跳ねに沿って続く石段を直射日光に晒されながらトコトコと下っていく。降り立ったところの分岐は、右が銀閣寺、真っ直ぐが法然院へと続く道で、ウサクマ一行は法然院へと直進した。法然院には15時に到着、蹴上を出発してより五時間の山歩きであった。三年に満たない京都暮らしであったが、その最期において、忘れられない東山トレイルコース踏破とあいなった。 by kuma
posted by うさくま at 08:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2009年04月11日

静原、二つの城址に登る

先月の二十二日、戦国時代の岩倉に勢力を有した山本氏の居城址を訪ねてきた。山本氏は岩倉の小倉山城を本城として、さらに、箕浦ヶ岳の北方にある静原にも城を築いていた。それが、静原城であり、伝によれば山本対馬守(資幹)が、明応年間(1492〜1502)に築いたものという。しかし、確かな記録によれば、弘治三年(1557)、三好長慶が山城五十四郷に夫役を課して築城したものであるようだ。三月の岩倉散策は静原城を攻略するための前準備であり、今回、ウサを誘って静原城に登ってきた。城址は城谷山山頂部に築かれた城谷山城と、城谷山から南東に延びる尾根筋の先端部に築かれた城山の二つがある。いずれも、京から近江を経て敦賀に通じる敦賀街道を眼下に見下ろし、西方の薬王峠越えで鞍馬街道に通じる要衝の地を占めている。

静原-遠望
静原口から城山城址(右の尾根先)、城谷山城址(左手の高み)を遠望

城址へは出町柳九時二十分発の京都バスに乗り約五十分、静原学校前で下車。バス停の北方すぐに見える山上に城山城址、その先の山上に城谷山城址がある。天気は快晴、ウサと城址を目指す。まずは、どこから山に分け入るか、あらかじめ想定した登り口を探す。おりから農作業中の方から声を掛けられ、しばし雑談。子供のころ山にのぼって石を転がして遊んだというが、その石って石垣ではなかろうか。歴史のことなど忖度しない子供にしてみれば、石垣があり、段々のついた地形は格好の遊び場となったのだろうが、城址ファンとしては複雑な心持だ。とはいえ、昔の悪がきたるその方に登り道を教えていただき、山道に分け入ったが、ほとんど獣道状態で汗をかいての直登であった。
なんとか迷うこともなく、城山城址の南曲輪にたどり着く。意外な広さで北側の切岸も高い。北方の主郭へと続く段曲輪を上ると、見事な土塁と堀切を思わせる道が現れ、さらに曲輪群が階段状に連なっている。主郭下の曲輪は南の曲輪に劣らない広さで、その南西にも曲輪が設けられている。それぞれ切岸が見事に残り、なかなか見応え十分だ。主郭は三段で構成され、一段目には虎口を思わせる石垣遺構、溜め池跡と思われる窪地に石垣、さらに二段目東南の切岸には見事な石垣が残っている。改めて、城址を振り返るとそこかしこに崩落した石垣が散乱している。おそらく、往時は石垣の見事な構えが、敦賀街道を往来する人々を威圧したものと想像される。主郭三段目の曲輪北端には三メートルを越える土塁が築かれ、その北方直下には見事な土橋を持った大堀切が穿たれている。その北方尾根には竪堀が設けられており、決して大きな城ではないが、石垣、土塁、堀切、竪堀など、戦国山城としては先進的な技術をもって造られていることが実感された。

静原-城山城址 静原-切岸と曲輪 静原-主郭へ
城址は山上に眠る  見事な切岸と腰曲輪  主郭に続く道

静原−石垣 静原-土塁 静原-大堀切
要所に石垣が残る  北曲輪北端の土塁  北曲輪直下の大堀切 

城山城址を堪能したのち、大堀切の土橋を渡り北尾根に取り付き城谷山城址を目指す。北尾根に設けられた竪堀を見つつ、さらに北方へ登り続けると、倒木が散乱する尾根道の傍らにひっそりと咲く藪椿が目にやさしい。三等三角点を過ぎたあたりに出曲輪と思われる地形があらわれ、さらに登ると城谷山城の曲輪に到達だ。
城址は主郭を中心として北・西・南の三方の尾根に曲輪が築かれ、先の城山城址と比べると縄張りは随分と趣が異なっている。主郭東南にある曲輪を経て西南尾根に設けられた曲輪へ取り付くと、窪地に石垣が残った区画があり、どうやら虎口遺構であるようだ。そこから主郭西南部をまいて、北西尾根に設けられた曲輪を目指す。それぞれの曲輪はなかなかの広さで、切岸も見事な高さで切られている。細長く伸びた北西曲輪の先端には土塁が築かれ、その先の尾根とは堀切で防御されている。主郭北東の帯曲を経て、南西部より主郭に取り付く。見ると、虎口のあたりには石段跡とおぼしき石が散乱、切岸には城山ほどではないが石垣が積まれていたことが確認できた。石垣が多用された城山城址と比べれば、いささか旧式の山城であることは否めないが、曲輪・切岸など城址そのものの保存状態は悪くない。

静原谷-石垣 静原谷-主郭と腰曲輪 静原谷-土塁
曲輪に散乱する石垣  主郭と東腰曲輪  北端曲輪下の堀切

さて、岩倉山本氏は三好氏に従って洛北で一定の勢力を保ったが、永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じて織田信長が上洛してくると三好氏を離れて信長・義昭に通じたようだ。そして、元亀元年(1570)、信長の浅井・朝倉攻めに際して、山本対馬守(実尚)は田中の渡辺氏、上高野の佐竹氏らとともに信長勢に加わった。翌年の比叡山攻めにも山本尚治(修理大夫)が一族とともに参陣している。ところが、義昭と信長の間が険悪になってくると、一乗寺の渡辺氏、山中の磯谷氏らとともに義昭に味方した。
元亀四年(1573=天正元年)、義昭が槙島城によって信長に反旗を翻すと、山本対馬守は岩倉を離れて静原城へ立て籠もった。信長は明智光秀に命じて静原城を攻撃させたが、対馬守はよく城を堅守、三ヶ月に渡って明智軍に抗戦を続けた。しかし、八月には「京都静原山に楯籠候御敵山本対馬、明智十兵衛調略を以て生害させ、頸を北伊勢東別所まで持来り進上」と『信長公記』に記されように、静原城は落ち山本対馬守は殺害された。一説には、山本尚治は義昭に味方して渡辺氏、磯谷氏らとともに一乗寺山城に籠った。あるいは、渡辺宮内少輔とともに静原城に籠ったが、明智光秀に諭されて降伏、以後、光秀に従ったともいう。いずれにしろ、山本氏は光秀に敗れて静原を失ったことは疑いないところだ。
城山城は山上の城谷山を攻撃する際に、光秀が付城として築いたという。たしかに北曲輪北端の土塁、その直下に穿たれた大堀切からみて、山上の城谷山からの攻撃に備えているように見える。しかし、主郭の位置と南尾根に連続する曲輪群、土塁などをみると、眼下の街道を押さえる縄張りとなっている。おそらく、城谷山の出曲輪として築かれたものを、交戦中に攻略した光秀が付城とし、落城後は山上の本城を廃して街道を見下ろす位置にある城山を修築したものであろうと思うのだが、どうだろうか。
城址を探索したあとは城谷山北方に続く尾根を経て、天ヶ岳から薬王峠に出て鞍馬までと足を伸ばそうとした。ところが、途中で道を見失い計画を変更、尾根に薄い道を見つけながら下りることにした。最期は道なき尾根から谷筋に下り、どうにか静原に降り立つことができたが、忘れられつつある山城探索は毎度のことながら一筋縄ではいかないものだ。とはいえ、南尾根に残る城山城址、その山上に位置する城谷山城の二つに登れば、時代が微妙に異なった山城遺構を堪能できること請け合いだ。 by kuma

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2009年04月10日

天文法華の乱

 

十六世紀はじめの戦国時代、一向一揆と法華一揆が全面対立した。その事件に当時の政治状況を踏まえた、今谷明氏の『天文法華の乱-武装する町衆』を読んだ。比叡山の学僧と日蓮宗の信者との間で行われた「松本問答」のところは、とくに面白かった。
 一向一揆のことは織田信長との関係などで語られるところが多いが、法華一揆に関して言えば畿内に限られたこともあって知られるところは少ない。とはいえ、戦国時代のはじめにおける法華一揆の存在は、政治的な観点からも避けて通れないものだ。すなわち、日本の中世における市民運動としての熱気がそこにはあるからだ。結果は、法華一揆の散々な敗北に終わったが、それはいまも祇園祭などの行事において京都町衆(市民)のなかに脈々と受け継がれている。京都町衆(市民)の人々がみずからの誇りとする原点、言い換えれば他国の人を馬鹿にする根本となっているのではないか。

天文法華

ところで、人生・・・十年にして、はじめてハローワークに行った。むかしでいえば、職業安定所だ。昨今の不景気はとんでもない様相を呈しているが、馬鹿な政治をするしか能のない政治家、かれらを支えるべき官僚の我田引水的な施策に物申す一揆は起こらないものか!江戸時代三百年による民俗矮小化を払拭して戦国時代のような熱気溢れる民族に立ち返るには、やはり道遠しなのだろうな〜。 by kuma
posted by うさくま at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書

2009年04月06日

意外に先進的、滝ヶ嶺城跡に登る

京から老ノ坂を越えて亀岡に入り、湯の花温泉を過ぎたところが丹波篠山方面と池田方面に通じる街道との分岐点である。滝ヶ嶺城は池田方面に曲がると、右手の方向に見える山上にある。東山麓にある曹洞宗桂林寺の西背後の山がそれで、山頂部一帯に城跡が遺されている。

滝峰-遠望
城址のある山上を遠望

城址の北西にある金輪寺後方の山には波多野氏の一族柳本弾正が拠った神尾山城、その西方には野々口氏の埴生城が残っている。神尾山、埴生城は山陰道を見下ろす位置にあるが、滝ヶ嶺城跡と数掛山城は亀岡から池田方面に抜ける京・亀山道(池田・妙見道)を扼する位置に構えられている。足利氏の家臣である森氏の居城であったというが、上村庄を支配した波多野氏が西方の数掛山城とともに口丹波支配の拠点としたものであるようだ。
山麓は丹波名物とでもいうべき猪・鹿除けの柵が設けられており、持参した国土地理院の地図と、縄張り図を見比べながら山上への取り付き場所を探す。桂林寺の右手方向の山麓に柵の入り口があり、その向うによく踏み固められた山道が続いている。そこから分け入り、しばらく歩くと谷筋方面と薄くだが尾根方面に続く道との分岐点に到達、中世、山道は谷ではなく尾根に設けるのが常道であり、迷わず尾根方面の道を登る。曲輪を思わせる尾根上にNHKのアンテナ施設が設けられ、山道はさらに山上へと続いている。しばらく歩くと、ひな壇状の削平地があらわれる。城址に到着か?と削平地を歩くが、城址の見所という大堀切は確認できない。おそらく、出曲輪が構えられていた址と思われる。
さらに山上に続く道をひたすら登っていくと、ついに大堀切に遭遇した。縄張り図と比較すると、どうやら城址と西方の尾根を穿つ堀切である。見上げると石垣が残り、堀切には崩落した石垣が散乱している。堀切から城址に取り付くと、南山麓に土塁も見事な横堀が設けられている。主郭との切岸は相当な高さで、木々をつかんで這うようにして登ると、主郭一帯は見事な藪で身動きもままならない状態だ。が、仔細に見ていくと堀切を見下ろす土塁、一段高い櫓台、さらに櫓台の東側には腰曲輪が設けられ、よく見ると虎口も確認できる。さらに、曲輪を下りていくと、東方の尾根を穿つ堀切が見事に残っている。藪化があまりにひどいが、城址そのものは堀切、石垣跡、横堀土塁跡、虎口、見事な高さの切岸などが残り保存状態は良好だ。

滝峰−山道 滝峰-堀切 滝峰-横堀土塁
しっかりした山道をたどる  城址西端の大堀切  主郭東南部の横堀と土塁

滝峰-切岸 滝峰-石垣 滝峰-東堀切
東腰曲輪の切岸  最東端の曲輪の石垣  城址と東尾根を穿つ堀切

麓からあまりにかけ離れた山上に設けられた城は、たしかに見晴らしはよいが維持・管理、また一朝ことが起きたときによく機能したものか、いささか疑問に思ってしまう。とはいえ、堀切・石垣・土塁・横堀など、戦国山城としては先進的な技術が用いられている。遺構の残存状態、山城としての歴史価値などを考えると、もう少し真剣に保存処理を施してほしいと願ってやまない。

滝峰-数掛マップ1

滝ヶ峰城址を探索したのち、谷を隔てた西方の山上にある数掛山城址を目指した。緩やかな尾根のトップで昼食を済ませ、谷へと下りていったが道なき山腹を必死の思いで谷筋へ到着。国土地理院の地図と見比べて数掛城址へと進んでいったが、谷筋の道は倒木と藪が連続するすさまじい状態となり、あえなく立ち往生とあいなった。「これはやばいな!」と決断、数掛山城址攻略はつぎの機会として下山を開始した。しばらく下っていくと、小型車1台なら楽々通れる林道へと出た。あらためて地図を見ると林道は先の谷へと続いているように書かれている…が、先の谷は藪と倒木で通行不能であり、地図の記述が間違っているとしか思えない(薄く赤で塗ったあたり)。で、地図にはみえないが滝ヶ峰城方面へと続く林道を歩いていくと行止りで、その先に山道が続いている。しばらく山道を進んだが、次第に道は細くなり荒れてきた。ここでも「これはやばいな!」と決断、いまきた道をひたすら後戻りする。ウサはすでに疲労困憊気味で、機嫌も悪くなっている。なにやら気まずい空気が漂うなか、広いだけの大味な林道を歩き続けた。相当なロスタイムのすえに、桂林寺にたどり着いたときはウサクマともヘトヘト状態であった。ムダな行動は疲れをいや増すだけであることを思い知らされた。
地図を用意し、縄張り図も入手し、登山前にシミュレーションもした結果、滝ヶ峰城址は迷うことなく攻略できた。数掛山城址も難なく登城可能と思ったが、なかなかどうして問屋は簡単には卸してくれなかった。つぎは、「半国山登山とセットで数掛山城へ登ろうか!」などと、ウサに阿ねつつ再挑戦の時期を思案している! by kuma
posted by うさくま at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城

2009年04月05日

新右衛門さんの城−蟠根寺城址に登る

金曜日、京都市に転出届けを出し、次の住処である篠山市に転入届けを出しに行ってきた。二十年前、奈良から篠山に引っ越したところ、翌年には東京へ転勤とあいなった。以来、関東に過ごすこと十七年、一昨年に京都本社へ転勤、それが昨今の社会情勢の煽りを受けて篠山のマイホームへ帰ることになったのである。
転出したときは丹南町民であったが、帰ってみると平成の大合併で篠山市民。バブル末期で浮かれていた日本も百年に一度という大不況で閉塞感が充満。ウサ、長男・長女・次女と賑やかだった五人家族もつぎつぎと子供たちが巣立っていき、結局はウサと二人ポッチ。人生ゲームではないが、なにやら「振り出しに戻る」といったところだ。二十年という時間の流れは、公私ともにクマを取り巻く環境を大きく変えていた。松尾芭蕉の『奥の細道』序文にいう「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」ではないが、時の流れに感慨無量である。
市役所で転出届けを受理されたあと、一休さんに出てくる幕府役人蜷川新右衛門ゆかりの園部町高屋にある蟠根寺(ばんこんじ)城址に登ってきた。

蜷川-神社
蟠根寺の守護神として建立された春日神社。後方の山上に城址遺構が残っている。

蟠根寺城は城主の名字から蜷川城とも呼ばれるように、南北朝時代、丹波国船井郡桐野河内を預けられた蜷川親朝が築いた山城だ。蜷川氏は伊勢氏に仕え、伊勢氏が幕府政所になると政所代に任じられ、幕府官僚として活躍した。桐野河内は幕府料所で、蜷川氏は桂川を利用して年貢などを京に搬送する役目も担っていたようだ。親朝の孫新右衛門親当は、「一休さん」に出てくる蜷川新右衛門のモデルになった人物といわれる。実際、親当は一休さんこと一休宗純とは師弟関係があったことが知られている。また、将軍義教に仕えて政所の公役をつとめ、京都の沙汰人として活躍した。それもあって、蟠根寺城は親当の庶兄にあたる貞繁が城主となり、貞繁の子孫が代々桐野河内の経営にあたったようだ。戦国時代になると親世・親長父子は蟠根寺城に住したが、伊勢氏が三好氏と戦って討死、永禄八年、将軍足利義輝が三好三人衆・松永久秀らの謀叛によって殺害されると、ついに親世らは蟠根寺城を去っていった。

蜷川-蟠根寺 蜷川-山道 蜷川-主郭へ
蜷川氏の菩提寺-蟠根寺  山上を目指す  主郭に続く上り土塁

蟠根寺城は京都縦貫道を園部ICで下り、県道19号線を日吉方面に左折、JR船岡駅南方に見える山上にある。城址へは道の駅「新光悦村」東方の千妻砦址、蜷川氏の菩提寺であった高屋の蟠根寺、船岡駅南すぐにある太鼓山砦址などから登れるようだ。ウサクマは、蟠根寺左手尾根に続く山道をたどって山上を目指した。道は薄いが迷うことなく山上の城址へたどり着くことができた。途中、出曲輪と思われる地形、神社址?と思しき石組があり、園部で最大の山城といわれる城址の壮大さを感じさせる。城址へは主郭東直下の曲輪から取り付き、上り土塁を経てまず主郭に到達。東方眼下には桂川と高屋の集落が望め、西方尾根の向うには園部市街が鳥瞰でき、なかなかの要害の地であることが実感される。

蜷川-出曲輪 蜷川-切岸 蜷川-竪堀
西尾根曲輪の土塁  東尾根曲輪の切岸  城址東端の竪堀

城址は決して保存状態がよいとはいえず、主郭、東曲輪は藪化がひどい。とはいえ、土塁、切岸、館跡を思わせる高みなどは確認できる。西曲輪につづく上り土塁を下りると、主郭とを隔てる高い切岸、東から南へ曲輪を巻く土塁が残っている。西曲輪から主郭南下の曲輪へと探索を試みたが、あまりの藪のひどさに先へ進むことは叶わなかった。主郭に戻り、北方の尾根に続く曲輪群へと向かう。北帯曲輪の高い切岸を下りた先には階段状に曲輪が続き、それぞれ切岸も見事に残っている。主郭と北尾根とを隔てる切岸は、ウサが落ちそうになったほど高く急勾配なもので要注意だ。北尾根曲輪群の北西には竪堀が穿たれ、規模が大きいだけではなく技術的にも見所がおおい城址だ。北端尾根とは竪堀で区切り、土橋を渡ったところに最北端の曲輪が築かれている。下山は最北端の曲輪から山麓の道親山館跡を目指した。登り下りとも道は意外と明確で、取り付き場所を間違うことがなければ、比較的、探索は容易な城である。
さて、親世・親長が去ったあとの蟠根寺城には、一族の蜷川貞周が在城し、明智光秀の丹波攻略の過程で光秀に属した。その結果、本能寺の変後の山崎の合戦に貞周と嫡男の貞房は光秀方として出陣、一族郎党とともに戦死した。ここに丹波蜷川氏は歴史を閉じ、蟠根寺城もその使命を終えたようだ。by kuma
posted by うさくま at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城