2009年03月30日

峰ヶ堂城址を探索する

峰ヶ堂城址は、阪急京都線の桂駅の西方に見える低丘陵上にあった山城だ。バブル真っ只中の昭和58年(1983)から建設が進められた桂坂ニュータウンによって、かつての城域のうち南曲輪群は完全に失われてしまった。昨今の土木技術による宅地開発は、山城などザクザクッと壊滅させてしまうパワーを持っている。これまでも多くの遺跡が宅地開発によって消滅していったが、まことに愚かな行為であり残念なことだ。

峰堂-老坂遠望
城址南端曲輪から老ノ坂方面を見る。眼下には桂坂ニュータウンが広がる。

さて、峰ヶ堂城城址は丹波と京を結ぶ唐櫃越の古道沿いにあり、南方には沓掛から老ノ坂を越えて丹波に通じる山陰道(現国道九号線)が走っていた。文字通り、丹波から京への入り口を扼する要衝の地にあった山城だ。そもそも、城址一帯には法華山寺という山岳寺院があり、通称「峰ヶ堂」とよばれていた。そして、盛時には『東の清水寺、西の法華山寺』といわれたほどの大伽藍を誇り、室町幕府の祈願寺にもなり、将軍をはじめ公家、皇族などが参拝したことが記録に残っている。法華山寺は戦乱のなかで衰微していき、十六世紀のはじめ細川晴元の家臣木沢長政が寺院跡に城を構え、西岡一帯の支配拠点として機能した。
城址へは、阪急上桂駅より丹波方面へと続く唐櫃越の道を辿っていく。住宅街が途切れ竹林を過ぎると、中世以来の墓地である桜谷墓地が眼前に広がる。墓石に刻まれた家紋を見ながら唐櫃越の道を峰ヶ堂へ、墓地上方に古い墓地が集められた一角があり、見ると、松室家、東家など松尾大社神職の家のものであった。そこから道は山中に入っていくが、振り返れば京都市街が一望できる素晴らしい眺めである。中世以来の松室家、東家の墓、両家の家紋、加えて素晴らしい展望、さすがに中世以来の墓地であるな〜、と妙に感動してしまった。

峰堂-市街遠望 峰堂-墓地 峰堂-石仏
墓地より京都市街を見る  松尾大社社家の墓地  山中に散在する石仏

山中の道に入ると、何やら曲輪のような地形があらわれ、登ってみると石仏がそこかしこに散乱している。すでに、かつての法華山寺の寺域であるようだ。唐櫃越の道はよく踏み固められ、急な登りもなく、一部、土橋状の尾根道があるが快調そのものだ。やがて、左手に広い削平地があらわれ、迷わず入っていくと見事な土塁、堀切、曲輪群が目に入る。縄張り図を見ると法華山寺の主要部で、城址においては北方の曲輪群にあたるところであった。曲輪は上段がもっとも広く、東方に向かって二段の曲輪が連なっている。削平もしっかりとしたもので、切岸も高い、見ると縁には石垣状の遺構が見える。もっとも東方の曲輪には経塚と思われる石組みがあり、城址が山岳寺院の跡地にあることが実感される。

峰堂-山道 峰堂-北土塁 峰堂-東石垣
よく踏み締められた唐櫃越の道  城址北曲輪の高土塁  城址東曲輪群の石垣跡?

北曲輪群の東端から東海自然歩道へと下り、自然道を沓掛方面へとたどる。自然道の標識がある右手に広がる谷が、かつて法華山寺の伽藍があったところで、一部には崩落した石垣が残されている。標識を過ぎたあたり、谷を隔てた東方尾根に東曲輪群が残っている。尾根に取り付くと曲輪があらわれ、土塁や高櫓跡を思わせる遺構が目をひく。さらに先の尾根に続く曲輪には石垣跡を思わせる崩落跡があり、ここもかつての寺院跡を城址として再構築したようだ。おそらく北曲輪と呼応しながら、東海自然歩道の通る谷を登ってきた敵兵を迎撃せんとしたものであろう。ついで、法華山寺主要部の谷を取り巻く南方尾根へと取り付き、主郭を目指す。こちらも結構な広さと高い切岸で区画された曲輪が連続し、上部の広い削平地には寺院跡を思わせる遺構、石仏などが残っている。そこから主郭を目指して、藪を漕ぎながら急尾根を登っていく。やがて尾根を穿つ堀切があらわれ、その向うに見える小さなピークが主郭だ。主郭の周囲は腰曲輪が設けられ、南方に続く細長い曲輪を歩いていくと、予想していたものの驚くべき光景が目に飛び込んできた。びっしりと立ち並んだ桂坂ニュウタウンの住宅群で、はるか西方には老ノ坂の山並み、南方には大原野一帯が遠望できる。開発される前は沓掛方向に向かってひな壇式に曲輪が構えられていたが、いまは住宅の屋根が連なるばかりで往時を想像させる名残はまったくない。
細川晴元に仕え峰ヶ堂城を西岡一帯の支配拠点長政は、晴元から自立する動きをみせるなど野心のおもむくままに行動する下剋上の人物であった。のちに畿内随一の権力者へとなりあがったが、最後は河内において戦死してしまった。長政が滅亡したのちは、峰ヶ堂城が記録にあらわれることはなく、法華山寺の遺構とともに風化していったのである。

峰堂-南曲輪 峰堂-南寺院跡 峰堂-堀切
城址南曲輪  南曲輪群寺院跡を思わせる地形  主郭と北尾根を穿つ堀切

峰ヶ堂城址(法華山寺跡)一帯、唐櫃越の道は戦乱のたびに、否応なくその舞台とならざるを得ないところであった。南北朝時代には足利尊氏に与した西岡衆が法華山寺に拠り、明徳の乱では山名氏が唐櫃越を越えて京に攻め込み、敗走した。そして、木沢長政の野望を育み、本能寺の変においては明智軍が本能寺へ攻め寄せた。できれば、唐櫃越の道を丹波方面まで踏破したかったのだが、城址の意外な広さに時間をとられ、丹波越はつぎの機会にゆずって桂駅へと下山した。 by kuma
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2009年03月27日

人形が往生するって…?

先日、烏丸駅を歩いていたとき、某大学のイベントポスターのキャッチコピー
「善人なおもて往生す いはんや人形をや」
が目に入った。「ん?」、浄土真宗の宗祖である親鸞さんの『歎異抄』第三章の冒頭に出てくる言葉「善人なおもて往生す いはんや悪人をや」をもじったものであろうが、すごい違和感を感じたのである。そのときは、そのまま立ち去ったのだが、今日、改めて見てしまった。コピーに対する違和感は前以上に強烈、なにやら嫌悪感すら感じてしまった。 

人形往生

「善人なおもて往生す いはんや悪人をや」
ものの本によれば、「よいことをする人は死んでからすぐに仏の浄土に生まれることができる。悪人ならなおさら仏の浄土に生まれることができる」ということだと解釈されている。普通に考えれば、悪いことした人が成仏できるなんて、間尺に合わない話ではないかと思うところだ。
また親鸞さんは我が身を振り返って、 
「浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし」
といっておられる。まことに正直なお方で、清らかといえる心もまったく無いと嘆いておられるのだ。そういう自らも悪であることを自覚しているからこそ、阿弥陀如来に縋ろうとする気持ちが起こってくる。善をなしたことを誇っている善人より、我が身のなした悪を自覚している悪人こそ、心の底から阿弥陀如来に縋るのであり、阿弥陀如来さまは善人と同様に救って下さるのだ。これが、親鸞さんのいわれる『悪人正機』、往生の正因なんだという。
クマの実家は先祖代々浄土真宗の門徒であり、法要のおりなどに親鸞さんの話を繰り返し聞かされて育った。それゆえ、人という心をもっていない人形が往生する、というコピーに違和感を覚えたのだ。
イベントを行う某大学のサイトにアクセスしてみると、『「善人」であっても、「悪人」であっても、浄土真宗では、すべて阿弥陀仏によって救われ、極楽往生を遂げることができるとされます。であるのなら、もう一歩踏み出してここでは「全(すべての)人なほもて往生す いはんや人形をや」つまり善人悪人の差別なく人間が救われるのであるからには、人形も救われるような状況を考えている』と説明されている。「なるほど…」といいたいところだが、やはり、主催者は人形を主体とするあまり本質を見誤ったとしか思われない、繰り返すが人形が往生するということにはどう考えても無理がある。けっして重箱の隅を穿っているつもりはないが、「善人なおもて往生す いはんや人形をや」は、まことに気色の悪いコピーなのだ。そのうち、
「善人なおもて往生す いはんや犬ネコをや」
なんてコピーが大書された、動物霊園の販促物が出てくるのではないか。しかし、こちらのほうが対象が生き物だけに、無理やりに納得できないこともない。
もっとも、寺社仏閣に祀られている仏さまなども木や金属、石などで作られたモノであり、カテゴリーとしては人形といえなくもない。ただ、某大学のポスターはそこまで突き抜けているようでもない。某大学のポスターを浄土真宗の方々が見られたとしたら、どのように受け止められるのだろうか?
永年にわたって尊重されてきた「ことば」は、それ相応の重みを有しているだけに慎重にあつかってほしい。昨今の面白ければいい!という某テレビ局の薄っぺらさが、なにやら垣間みえて、「なんだかな〜」と思うのだ。もっとも親鸞さんにすれば、「そんなことはどうでもよいのじゃ、なにであれ阿弥陀如来を信じる心こそ尊いのじゃ」とおっしゃることであろうが…。他方、禅宗や日蓮宗などの人にとっては、どうでもいい話とも思われる。ポスターに反応したクマは、やはり浄土真宗の家に育ったことを実感した次第であった。普段、まったく意識していないことが、ヒョンなことで顔を出す。まさに「三つ子の魂、百まで」っちゅうことかな。 by kuma  

*ポスターのコピーについて、ウサに話したところ「そんなん、どうでもえ〜やん」と言われ、娘のポチには「よ〜、分からん」と言われた。ま、そんなものなんやろね、きっと。
posted by うさくま at 12:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年03月22日

洛北の土豪山本氏の故地を訪ねる

嵐山城に登ったのを皮切りに、京の山城攻略に汗を流している。この三連休は会社の引っ越しと重なったが、よく晴れた彼岸の日、片付けの終わったあと洛北は岩倉に向かった。岩倉は岩倉具視幽閉の地、門跡寺院実相院などで知られる所で、戦国時代、土豪山本氏が一帯を支配していた。山本氏は岩倉盆地中央の小倉山に主城を築き、花園、長谷、一蔵(大雲寺)などに支城を構えていた。資料を見た限りでは、これまで登った京の山城に比べて、いずれも小振りなものばかりだ。で、今回は、それらの城を時間の許す限り登ってやろうと、新事務所をあとにしたのだった。
京都駅から洛北岩倉へ行くのは意外と面倒で、地下鉄で国際会館まで行き、そこから岩倉まで歩くのが一番分かりやすい。が、ガイドブックを見ると北大路駅のバスターミナルから岩倉に行くバスが出ている。早速、北大路に向かいバスターミナルの案内図を見た所、なんと岩倉行きのバスはなく、係員に聞いた所岩倉行きのバスは出ていないという。それからが大変で、係員に聞いたバス停へ歩き出したが分からない、そのまま歩き続けて叡電茶山駅に到着だ。やれやれと来た電車に乗ったが、鞍馬方面には行かず、八瀬比叡山口に着いてしまった。間違った!気を取り直してUターン、宝ケ池で鞍馬行きの電車を待つ。国際会館のコースであれば、とっくに岩倉に着いて、最初の城に取り付いているころだ。まさに「横着者の長糸通し」をやらかしてしまった気分で、なんとも忌々しいロスタイムだ!

岩倉-界隈
岩倉川沿いの由緒ありげな民家、後方は比叡山脈

まず、コンビニで昼ごはんを購入、食べながら山住神社を目指す。山住神社は本殿がなく、自然の岩をそのまま拝すると言う古式なもので、それが却って神寂びた雰囲気を醸していてゆかしい神社だ。東方に聳える比叡山を見ながら岩倉川にそって実相院へ、実相院の裏に見える山上に目的地の一つである大雲寺山(上薗)城址がある。中世、岩倉一帯は大雲寺が支配するところで、戦国時代のはじめ、静原から山本氏が岩倉に入ってきたのだという。そして、詳細は不明ながら岩倉一帯に勢力を伸ばし、西川氏に代わって小倉山を本拠として、大雲寺山城、長谷城、花園城などを築いたのだと伝えられている。実相院の門前にある洛陽病院の院長山本氏は、中世、岩倉を領した山本氏の子孫にあたられるという。かつて隆盛を誇った大雲寺は、往時の面影はなく、その跡地一帯には北山病院が立っている。かつて、大雲寺は心を病んだ衆生の救済に務めたといい、北山病院はその流れを汲んで心を病んだ人の治療にあたっている病院だ。
大雲寺山城へは北山病院の背後から山上に続く道があり、急坂を登っていくと、山上の主郭まで曲輪が階段状に連なっている。南西に続く尾根とは堀切が穿たれているが、総じて大味な城址である。ついで、山本氏の本城であった小倉山城址を目指す。小倉山は南北二つの峰で構成された小山で、南が主郭で、北に出曲輪が営まれていた。登ってみると雑木に覆われ、削平地らしきものを確認できるが、堀切、竪堀、土塁といった遺構はなく、山城というよりは居館に近いものと思われた。目を惹いたのは主郭にあった飾り?もので、こどもが遊んだあととも思われず、なにやら祭祀を行った跡のようで不思議な光景であった。

岩倉-山住神社 岩倉-上薗城址 岩倉-小倉山01
まさに岩座 - 山住神社  大雲寺山城址曲輪の切岸  小倉山城址主郭の妙な祭祀跡?

ついで、バス停でバスを待っていらっしゃる老婦人に近在の惣墓地の場所を聞き、山本家など岩倉界隈にゆかりの家々の家紋散策へ。おりからのお彼岸で、墓地には参拝者の方々がいらっしゃることでもあり、遠慮がちに墓碑を見させてもらう。伊佐家、城守家、兵庫家など岩倉ならではの名字が並び、ついに山本家の墓地を発見した。そもそもは山住神社の近くにあったものを惣墓地に遷したものだそうで、小倉山城を築いた初代山本尚親の墓碑も真新しいものに立て替えられていた。墓石に刻まれた家紋を見ると「五本骨扇に日の丸」、古記録にある「巴に橘」との違いに戸惑ったものの、この日一番の収穫であった。ところで、山本尚親は明応五年(1496)三月十九日にこの世を去っている。小倉山城址にあった妙な祭祀跡は、ひょっとして尚親の法要の行われた跡だったのかも知れない。
山本氏の家紋を収集したあとは、図書館に寄り、長谷八幡→妙見宮へと足を伸ばす。さらに、花園城址を攻略せんとしたが、すでに時間は五時前である。とはいえ、太陽はまだ高みにある。ままよと、花園城址を目指して林道へ。林道の途中から尾根に分け入っていくと、曲輪、竪堀と思しき地形があらわれるが、資料によれば城址はまだまだその先の山上だ。夕日と競うようにひたすら尾根を登り続け、ついに山上の城址へ。伐採された木々が散乱しているものの、主郭を中心に帯曲輪が取り巻き、切岸も高く登り土塁も確認できる。しかし、尾根には堀切は見当たらず、山城としては古い形態に属するものと思われた。城址でじっくり考えようにも夕日は山際に沈もうとしており、取り急ぎ下山することにした。

岩倉-小倉山02 岩倉-山本家墓地 岩倉-花園城址
小倉山を遠望  山本家の墓地 - 真ん中の墓石が初代尚親のもの  花園城址曲輪の切岸

今回、小倉山城、大雲寺山城、花園城と三つの山城に登ってきたが、全体的に感じたことは戦国山城としてはいささか古臭いものということだった。先日に登った北白川城一乗寺山城中尾城などと比べても、それは歴然としていた。これは、領主山本氏の勢力規模と情報後進性をあらわした結果ともいえそうだ。最初のロスタイムがなければ、長谷城も攻略したかったが、そこまでは欲張りというものであろう。つぎに狙っている静原城攻略の先駆けとしては、十分に満足のいく岩倉の歴史散策であった。 by kuma

posted by うさくま at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史探索

2009年03月21日

石森章太郎の最高傑作は「マンガ家入門」 

人気漫画家だった石森章太郎(のちに石ノ森章太郎)さんが亡くなって久しい。
こどものころ、病弱でマンガ好きだったクマは「少年」という月刊誌を買ってもらっていた。週間マンガ誌の登場前で、少年画報、少年ブック、冒険王といった月刊誌が全盛時代だった。やがて、週刊マンガ誌の登場で月刊マンガ誌は廃刊に追い込まれたが、少年には「鉄腕アトム」「鉄人28号」をはじめ「シルバークロス」「少年同盟」「ストップにいちゃん」などの名作(クマ選)が連載されていた。当時は現代に続くマンガの勃興期で、手塚治虫に憧れてマンガ家になった石森章太郎・藤子不二雄・赤塚不二夫らが活躍をはじめたころで、多くの少年少女がマンガ家になることを夢みた。そのようなマンガ少年少女を狂喜させたのが、石森章太郎さんが著した「マンガ家入門」だ。クマもマンガ家に憧れた少年少女の一人で、なんとか親に頼み込んで「マンガ家入門」を買ってもらうことになったが、それが一大事であった。
いまなら、欲しい本はインターネットで簡単に購入できるが、はるか四十年前、兵庫県西部の山奥に住む身にとって「マンガ家入門」は遥かに遠い存在であった。近くの町(といっても四キロ以上離れている)に行けば本屋さんはあるが、田舎町の小さな本屋に「マンガ家入門」があるはずもなかった。で、いまは亡き姉に頼み込んで、郵便為替で申しこんでもらい、待つこと数週間、「マンガ家入門」が届いたときの喜びはいまも昨日のことのように思い出すことができる。

「マンガ家入門」は画期的な本で、マンガを描くための道具から、描き方、心構えなどが丁寧に記されていた。圧巻は、自作の『龍神沼』を題材として、一つのマンガを構成するあらゆることを、余すところなく説明されていたことだ。それは、まるで映画撮影そのものの解説であった。取り上げられた『龍神沼』は素晴らしいマンガで、まったくムダなコマなどなく、精緻に紡ぎだされた珠玉のファンタジーとよぶにふさわしい傑作だ。その傑作を筆者みずからが、マンガ家志望の少年少女を対象として徹底的に解剖するのだから、読んでいてこれ以上の面白さがあろうはずがない!「マンガ家入門」を書いたとき石森章太郎さんは二十代後半という若さで、同書は『マンガを描く』という技術的な入門書にとどまらず、マンガ家という職業に『就く』という面での入門書ともなっていた。「マンガ家入門」は、「天才マンガ家」と讃えられた石森章太郎さんの若き才能が随所に煌めきを発する一冊だ。
マンガ家入門
続マンガ家入門もいいけれど、断然、マンガ家入門の方が傑作だ!

やがて、さいとうたかお、園田光慶、南波健二といった資本マンガでしか読めない(当時)劇画に魅了され、丸い線タッチの石森章太郎(いわゆる手塚治虫氏の流れ)さんのマンガ(とくに仮面ライダー系)に魅力を感じなくなっていった。そして、「マンガ家入門」は、友達に誕生祝としてプレゼントしてしまった。
その後、マンガののんびりした時代は過ぎ去り、七十年安保のころになると文字通り百花繚乱の様相を呈し、なにやら田舎の少年がマンガ家を夢見る時代は終わっていた。思えば、七十年安保のころは岡林信康・五つの赤い風船らのフォークソング、寺山修司・唐十郎らのアングラ演劇が登場し、振り返ってみてもまことに熱い時代であった。いまも、マンガは好きでよく読んでいるが、すでに面白い読み物として惰性で読んでいるに過ぎない。その間、文庫版で出された「マンガ家入門」を購入したが、それは再編集されたものであってまったく別物だった。
先日、古本市に行ったところ、「マンガ家入門」と「続マンガ家入門」がセットで売られていた。これは買わずばなるまいと、ためらわず購入した。あらためて読んでみて、遠い昔、待ちに待って届いたときの感動がよみがえってきた。石森章太郎さんの「マンガ家入門」は、かつてのマンガ少年少女が抱いた熱い夢の道標となったものであった。石森さんらのマンガに熱中し、マンガ家をめざした少年少女時代を過ごした人にとって、「マンガ家入門」は当時の日々を懐かしく思い出させてくれる一冊であろう。今回、「マンガ家入門」を読みかえしてみて、これこそ石森さんの最高傑作のひとつだ!と確信したのは思い込みがきつ過ぎるだろうか。 by kuma
posted by うさくま at 08:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書

2009年03月20日

バムセな日々

我が家には、バムセがいる。
いまを去ること十年前くらいだったかの一月七日、長女の誕生日プレゼントを探しに恵比寿駅上の専門店街によった。たしか三階だったか?、フロア一杯にブタのヌイグルミがセールされていた。見ると、なんともいえずとぼけた表情で、有無をいわさぬ「愛らしさ」だ!。
で、でかいのを一つ買って帰ったところ長女は「バムセやん!」と喜んでくれた。
知らなかったのだが、「ロッタちゃんはじめてのおつかい」という映画にでていたヌイグルミで、当時、人気だったらしい。その後、京都の大学に進んだ次女に、長女は小ぶりなバムセをプレゼントしたという。
その次女のバムセがめぐりめぐって、いま、ウサクマのもの?になっている。 

バムセ2
 いささか草臥れてきた我が家のバムセ

柔らかな布で作られたボディはまことに触り心地がよく、小さな黒ポチ目は、なんともいえず愛らしい。荒んだ日々が続く昨今、抱いて、見つめて、ときにはいたぶって、なにやら癒されている。だいぶ草臥れてきたし、思い切って大きいのんを買おうかな〜と思うが、調べたところ5.150円…ちょっと躊躇う金額ではある。それよりも永年慈しんできたバムセが可哀想だしな〜、などと他愛のないことで悩んでいる。  by kuma
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2009年03月17日

石鳥居から一本杉を経て穴太へ

一乗寺山城址を探索したのち、天気も良好、予定通りもう一つの一乗寺山城址(仮に比叡一乗城址)を探りながら一本杉へ、そして、壺笠山城址を攻略して穴太へと下ることにした。まず、城址から石鳥居まで歩き、そこでウサ手作りのオニギリで腹ごしらえを済ます。

一本杉-石鳥居
石鳥居、鳥居右手の山道を登る

石鳥居から山道に取り付く、よく踏み固められた道は快調そのものだ。途中、城址のような地形が現われるが、規模からみて比叡一乗城址の前線基地であろうか。山城は恒久的に造られた近代の城と違って、合戦のたびに構えられた・・・いわゆるキャンプ地のようなものだ。それゆえに、戦いが終われば壊されるか、捨て去られることになり、遺構は風化にさらされ城址と判断するのがまことに難しいことになる。

一本杉-山道 space_w 一本杉-砦跡 space_w 一本杉-分岐
一本杉へ  砦跡の遺構か?  比叡アルプスとの分かれ道

ともあれ尾根道を歩くこと約二十分、一本杉と比叡アルプスの分岐点に到着。一本杉方面にしばらく歩くと、曲輪跡と思わせる削平地が連続する地形が現われる。さらに尾根方向に巻いて行くと、堀切、曲輪が連なっている。高い切岸、連続する帯曲輪、さらに一本杉方向の尾根を穿つ堀切など、相当な規模の山城のあとだ。比叡一乗寺城址は浅井・朝倉連合軍が比叡山と協調して、織田信長と対峙したときに構えた山城である。城址と思われる一帯は、比叡山も間近に見え、相当の兵員が収容できる広さである。一本杉と一乗寺山方向とを結ぶ道を扼する立地といい、断言はできないが限りなく比叡一乗寺城の遺構と思われた。

一本杉-城址1 space_w 一本杉-城址2 space_w 一本杉-城址3
比叡一乗城址か? 堀切、帯曲輪、切岸が見事に残る遺構群

一本杉-比叡遠望 space_w 一本杉-展望台 space_w 一本杉-東海道
途中の道から比叡山を望む  一本杉に到着  東海自然歩道に進む

比叡一乗城址より一本杉へ続く尾根からは左手に比叡山、右手には遠く比叡平が見え隠れする。やがて、一本杉に到着、展望台からは京都市街、大津市街、琵琶湖を一望できる。一息いれて、比叡山ドライブウェイから分岐する東海自然歩道へ。自然歩道もよく踏み固められた快適な道だ。やがて、絶壁のような急坂に設けられた段々が続き、慎重に降り立ったところが穴太方面と滋賀里方面との分岐となる。迷うことなく穴太方面の道をたどったが、道は谷筋の広い林道となり、めざす壺笠山に行くとは思われない。途中で発見した山道に分け入ると、尾根のところで東海自然歩道と合流した。が、右か?左か?どちらに行けば壺笠山に通じるのか分からない。直感をたよりに右方向をたどると、なんと比叡山ドライブウェイが目の前に・・・、先の分かれ道から上がったところへと逆戻りをしてしまったのだ。気を取り直して、いま登ってきた道を引き返す。先の合流点を通り過ぎ、手元の地図で地形図を頭に描きながら、ひたすら山道を上り下りする。やがて、壺笠山と穴太の分岐を示す看板が現われ、細尾根を登っていくとやっと目指す壺笠山城址に到着だ。
主郭を取り巻く帯曲輪に足を踏み入れると、足元には石が散乱、切岸の一部には石垣が残っている。主郭は雑木と藪に覆われ、まったく眺望はきかない。往時は、比叡山はもとより、琵琶湖対岸の草津から西南山麓の大津一帯が手にとるように見えたことであろう。城址は思った以上に小ぶりで、この程度の城を山麓からかなり隔たった山上に築く必要があったのかと首をひねるところだ。あとで調べてみると浅井・朝倉勢は、比叡山上に陣取ったとき比叡山の各所に城砦を構えた。壺笠山城は山麓に陣取る織田勢の動きを察知し、各城砦に通報する任を担っていたようだ。浅井・朝倉勢が引き払ったのち、壺笠山城は明智光秀の支配するところとなり、現在残る石垣は光秀によって修築されたものだ。

一本杉-大津遠望 space_w 一本杉-分岐2 space_w 一本杉-壺笠1
山の切れ目から琵琶湖が  壺笠山への道  壺笠山城址に到着、石垣が…

一本杉-壺笠2 space_w 一本杉-壺笠遠望 space_w 一本杉-滋賀里駅
主郭の高い切岸  穴太から壺笠城址を振り返る  滋賀里駅に到着

城址から穴太方面に下ると林道へ、ところが、道は行止りになっている。それならと尾根に見える山道へ分け入ったが、こちらも途中で行止りだ。さらに道を引き返すと、穴太方面へと通じるらしい広い道があった。ところが、その道も進むにつれ倒木が増え、湿気も強くなり、何やら忘れ去られた道のように思えてくる。「引き返すか?」と一抹の不安が胸にきざしたが、もう進むしかないと下っていくと堀切道のような道となり、どうにか山麓にたどり着くことができた。一時は、狐につままれたような気になったが、京都から滋賀までの山歩き、なんとか目的達成だ。
ここのところ京都方面の手入れが行き届き、案内標識も充実した道を歩いてきただけに、滋賀方面の山にはいささか泣かされた(丹波の山城探索に比べれば、山道はしっかりしているが)。とあるブログによれば、壺笠山界隈はダニが多いという、たしかに湿気の多い下り道を歩いてきた身としては実感するところだ。山城探索は木々の葉っぱが落ち、下草が枯れ、蛇や虫なども冬眠している晩秋から晩冬までがシーズンだ。そろそろ、蛇や虫が這い出してくる春がくる・・・が、許す限り山城探索を続けんとするクマです。ただ、ウサは嫌がるだろうな・・・間違いなく。 By kuma

 *付記:あとで調べたところ、比叡一乗寺城ではなかろか?と推測したところが城址であった。
posted by うさくま at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2009年03月16日

現代に続く戦国領主の家系、一乗寺山城

先日、ウサと北白川から石鳥居、そして修学院まで山歩きをしたとき、途中で一乗寺山城址に立ち寄った。その後、一乗寺山城址のことを調べると、城主は渡辺氏で、足利将軍に仕えて信長に抵抗したことを知った。さらに、城主渡辺氏の後裔にあたる渡辺家が、近世、一乗寺村の庄屋として続きいまも堀の内という地名のところに豪壮な屋敷を構えておられることも知った。せっかちなクマとしては花粉症のウサを置いて、早速、一乗寺村の渡辺家見学と一乗寺山城址再探索に出かけてきた。

一乗寺-渡辺屋敷
重厚な渡辺家の門、門前には「宮内少輔城址」の碑が立ち、周囲には土塁、堀跡が残っている

戦国領主渡辺氏は、現渡辺屋敷を日常の生活の場とし、いざというとき一乗寺山上に築いた城址へ籠ったものであろう。屋敷から東南方向には将軍義輝が拠った中尾城址がみえ、後方には一乗寺山、比叡山が見えている。前回、一乗寺山城址へは寄り道をしたというものだったが、今回は一乗寺山城址探索がメーンであり、気合を入れて曼殊院横の山道から往時の大手道という古道に分け入って城址を目指した。

一乗寺-遠望
渡辺家の土塁と濠、右手後方に見える山上に一乗寺山城址がある
 
旧大手道は落ち葉が降り積もりフカフカで歩きにくいが、道そのものはしっかりしている。とはいえ、一部崩壊しているところ、這うようにして登るところもあり油断はできない。葛篭折れにつづく道は、ときに竪堀状、切岸、堀切かと思われる場所があり、攻め上る敵に対する防御と攻撃を意識して作道したことを感じさせる。

一乗寺-曼殊院 space_w 一乗寺-山道 space_w 一乗寺-大手道1
曼殊院山門前を右へ  曼殊院横の山道  旧大手道

一乗寺-大手道2 space_w 一乗寺-城址 space_w 一乗寺-南土塁
城門跡を思わせる大岩  城址を貫く大手道  南曲輪の土塁

尾根上に残る城址にたどり着いたときは、へろへろの汗だく状態であった。いつもながら、戦国時代を生きた武士たちの壮健さに驚かされる。城址は大手道によって南北に隔てられ、北を主郭に、南に出曲輪、主郭と大手道を隔てて構えられた東曲輪群で構成される。城域は思った以上に広く、連続する曲輪、土塁などの保存状態も良好だ。大手道を登ってきた敵は、南曲輪、主曲輪、そして東曲輪の互いに連携しあう三つの曲輪群によって迎撃されるつくりになっている。比叡山へと続く北尾根とは高い切岸と堀切で隔てられ、堀切の向うには番所があったという櫛状の曲輪が連なり、まずは万全の構えである。さらに、その先の三等三角点がある頂上から、石鳥居までの尾も城域であったというが、確認をすることはできなかった。

一乗寺-南切岸 space_w 一乗寺-南帯曲輪 space_w 一乗寺-北土塁
南曲輪跡の切岸  意外に広い帯曲輪  北曲輪の土塁

一乗寺-北土塁2 space_w 一乗寺-北堀切 space_w 一乗寺-三角点
北曲輪北側の土塁  北端尾根を穿つ堀切  頂上の三等三角点

一乗寺山城址は、在地土豪の渡辺氏の詰めの城とするには規模が大き過ぎる感もある。が、将軍と奉公衆という関係などから推して、将軍を迎え入れることも想定して構えた城ともいえそうだ。元亀・天正のころの当主渡辺宮内少輔昌は、足利義昭に属して織田信長に抵抗したが、義昭を一乗寺山城に迎え入れようとしたという。しかし、義昭は槙島城に籠り、敗れ、足利幕府は潰え去ったのである。戦国期、宮内少輔昌は北山城衆として、静原の山本氏、中山の磯谷氏ら洛北の土豪たちと協調して行動している。宮内少輔昌らは、将軍に奉公衆として仕え、最期まで忠実な存在であった。一乗寺山城址の意外な規模の大きさは、渡辺氏と将軍足利氏との関係をうかがわせる傍証ともいえそうだ。このように、書物からは読みとることのできない戦国史を肌で感じるのも、山城を歩く楽しみのひとつである。その楽しさに嵌ると、まず抜けることはできない・・・だろうな。 by kuma

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2009年03月09日

四条発、東山から粟田口を経て四条へ戻る

土曜日に続いて、山城&山歩きを楽しんできた。ウサは昨日の疲労と花粉症のため「行かへん」とのことで、一人行だ。今回の山城攻略は将軍足利義輝が八坂の塔の東方、霊山の尾根に構えた霊山城址だ。ものの本によれば墓地の造成によって城址は消滅したというが、資料館でゲットした簡単な縄張り図を手に城址探しに出発した。

霊山-遠望
八坂の塔後方の山上に霊山城址がある

四条大橋を渡って、建仁寺境内を経て八坂の塔へ、人手で賑わう二年坂から高台寺、右手に見え隠れする山が霊山だ。地図を見ると城址へは護国神社にある坂本竜馬の墓所後方に登り口らしきものがあり、まずは竜馬の墓に詣でてから城址を目指そうとした。ところが、なんと入場料三百円とあり「え〜っ」という感じだ。けち臭い話だが竜馬の墓所参拝は取りやめて、もう一つの登り口である正法寺の墓地を目指す。墓地の外れの崖を強引に攀じ登ると、よく踏み固められた山道を発見。ちなみに、竜馬の墓地方面に下ってみると、ガッチリと金網でバリケードされ「立ち入り禁止、ここから先有料」のカンバンが付けられていた。さすがに京都の神社・仏閣はしっかりしてはるな〜。

霊山-建仁寺 space_w 霊山-八坂の塔 space_w 霊山-愛宕山遠望
建仁寺の楼門  橙の木越しに八坂の塔  正法寺境内から愛宕山を遠望

で、城址をめざして山上へ。と伊藤博文の碑というどでかい石碑が現われ、振り返ると木立が邪魔しているものの京都市街から愛宕山までが一望できる。縄張り図と見比べてみると、どうやら石碑のある削平地が主郭のようだ。主郭から南西側の山腹を木々越しに見透かすと、なにやらヒナ壇状の削平地が見える。印象としては風化と藪化が進んでいるが、幾重にも設けられた腰曲輪、崩れかけているが切岸も残っている。主郭の東直下には、その先の尾根とを穿つ堀切が設けられ、さらにその先には土橋をもった竪堀状の遺構も確認できた。城址を振り返ると主郭の高い切岸と堀切、左手尾根に連なる曲輪群が確認でき、なかなかどうして立派な城址だ。

霊山-城址01 space_w 霊山-城址02 space_w 霊山-城址堀切
霊山城址を探索 - 主郭下の曲輪  曲輪の切岸  主郭東の堀切

霊山-城址主郭 space_w 霊山-清水分岐 space_w 霊山-将軍塚へ
城址主郭を振り返る  清水との分岐  将軍塚に続く尾根道

霊山-将軍塚 space_w 霊山-粟田口へ space_w 霊山-円山分岐
将軍塚  将軍塚から粟田口へ  円山公園への分岐

霊山城址をあとに、将軍塚へと向かう。山道は快適で、ほどなく清水寺方面との分岐へ到着。一帯は土橋と竪堀?、虎口の跡?といった地形で、まるで城址のような雰囲気だ。清水寺から登ってきた場合、ここから霊山城址へと進むところだが、城址方面は「この先行止り」の標識が立てられている。護国神社方面からの登りと東山トレイルからの分岐が、ともに「行止り」となった時点で霊山城址は幻の城址になってしまったようだ。さて、将軍塚に続く尾根に取り付き、山道をしばらく歩くと唐突に将軍塚駐車場へと到着だ。そもそも将軍塚とは平安遷都にあたって桓武天皇が、都の鎮めの意味を込めて武将の像を埋めた塚を築かせたのが始まりといわれる。その後、国家に異変が生じようとしたとき、塚が鳴動したという。いま大日堂が建立され、その庭園に設けられた展望台から見る京都市街の眺めは素晴らしいパノラマだ(入園料:五百円)。トレイルコースは大日寺山門の手前の標識から山道に分け入り、大日寺に沿って北方へと続く。円山公園の分岐を通り越し、都ホテルの敷地をかすめつつ、粟田口へと下っていく。粟田口に到着すると、府立図書館に向かい借りていた本を返却。あとは、南禅寺→知恩院→八坂神社とブラブラ歩きで、ウサが一緒なら許されない菊正宗パック(一合)を片手に四条河原町を目指す。ほどよい疲れにアルコールがよく滲み通る、つまみに買ったたこ焼き(六個三百円)も美味い、これはこれで癖になりそうだ。

霊山-下山 space_w 霊山-八坂の梅 space_w 霊山-八坂楼門
踏み固められた山道が続く  八坂神社の紅梅  八坂神社の楼門

これまで、嵐山方面の西山トレイルコース、鹿ケ谷から大文字山、北白川の白鳥越えから雲母坂、そして、今回の将軍塚から粟田口への東山トレイルコースを断片的に歩いてきた。いずれも道がまことにきれいで標識も要所に立てられていて、快適な山歩きが楽しめる。とくに東山トレイルコースは、中世以来の道がそのままコースになっており、城址、寺院跡などなど、知らず身をもってそれぞれの時代史が体感できるところである。いつまで京に住み続けるのかは分からないが、可能な限り、京周辺の山城攻略&山歩きを楽しもうと思っている。by kuma

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2009年03月08日

北白川から白鳥越えを経て修学院へ

昨日、ウサと一緒に北白川から白鳥越えを経て石鳥居、雲母坂から修学院までを歩いてきた。四条烏丸より市バス3系統に乗り三十分、終点北白川仕伏町で下車、トレイルのルートでもある「北白川史跡と自然の道」の標識が見える。以前、生山山上の北白川城址を訪ねたとき、山上から下ってきた道だ。今回は、北白川城の南端に位置し志賀越えの道を押さえる南城址への登り道から取り付いた。

北縦走-登り口
旧来の登り口にはマンションが建っていて登れない

山上に展開する北白川城址群は、瓜生山山上のものを本城(勝軍地蔵山城)に、東尾根上に白鳥越えと地蔵谷からの道を押える東山新城群、そして、南尾根城址がある。本城と東山新城は城址ファンにも知られているが、南城址はいささかカゲが薄いようだ。しかし、実際に登ってみると、堀切、曲輪、帯曲輪が配され、主郭などの切岸も見事に残っている。なかなか、見応えのある城址である。城址の北端は「北白川史跡と自然の道」に接し、踏み固められた山道が白鳥越えへと続いている。尾根に取り付き、東山新城で昼食を摂り、新城の北側に残る北城址群を経て、比叡山方面へとトレイルルートをテクテクと登り続ける。天気はいいし、ほどよい温かさで快適そのもだ。

北縦走-南堀切 space_w 北縦走-南切岸 space_w 北縦走-東新城
北白川南城址の堀切  南城址主郭の切岸  山上尾根の東新城へ

北縦走-大岩 space_w 北縦走-一乗寺城 space_w 北縦走-大鳥居
堀切を思わせる大岩  一乗寺城址を分断する白鳥越道  石鳥居に到着

北縦走-水飲対陣 space_w 北縦走-千種卿碑 space_w 北縦走-細尾根
水飲対陣の跡碑  千種忠顕卿戦死の碑  雲母坂に通じる土橋状の細尾根

北縦走-雲母坂城 space_w 北縦走-雲母坂 space_w 北縦走-石碑 
雲母城址の遺構か? 狭い雲母坂をひた下りる  雲母寺跡の碑 

城址、旧跡を巡りながら雲母坂の堀切道を下りきり、修学院バス停についたときは夕闇が広がりつつあった。全行程、テクテク上り下りすること、約6時間の山歩きであった。 by kuma
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2009年03月06日

足利義輝と三好長慶が対峙した中尾城

銀閣寺の背後の山腹に五山送り火の一つ大文字が見える。大文字焼きの火床がある大文字山北西の尾根上に、天文十八年( 1549)、ときの将軍足利義晴によって築かれた中尾城址が残っている。時代は管領細川氏の重臣であった三好長慶の勃興時で、義晴は管領細川晴元と結んで長慶と対立していた。天文十八年、摂津江口で長慶と戦って敗れた晴元は、義晴を奉じて近江へ撤退した。再挙を期した義晴は、一味の晴元・六角定頼、幕府奉公衆らの協力をえて、中尾山上に築城を計画、翌年の春に城は完成した。しかし、義晴は新城に入ることなく、近江朽木で病没してしまった。中尾城には新将軍となった義輝が入り、細川晴元、六角定頼らも北白川城などに入って三好軍と対峙した。長慶は大軍を催して義輝らを攻撃、退路を脅かされた義輝は中尾城を自焼すると近江に敗走した。かくして、中尾城は三好軍によって徹底的に破壊され、わずか一年余りで廃城となった。

中尾-如意道 space_w 中尾-途中道 space_w 中尾-分れ道
如意ヶ嶽城から火床へ下る  前方に比叡山が見える  中尾城址への分かれ道

中尾城址へは、大文字山山上の如意ヶ嶽城址から大文字焼きの火床へ通じる途中の鞍部より中尾山に分岐する山道をたどっていった。大文字山を通る如意越えの尾根道には劣るものの、しっかりとした山道である。木々越しより北方に聳える比叡山を見ながらドンドン下っていくと、出曲輪のような場所に出るが、城址はまだまだ先の尾根である。さらに山道を下っていくと中尾城址への分かれ道にたどり着くが、気づかずに通り過ぎてしまった。ウサの「間違っているのとちゃう?」の指摘をえて地図をにらむ、どうやら間違いだ。もう一度、尾根に戻り分かれ道を発見、やれやれとそこを下っていくと中尾城址の最南端の竪堀と曲輪が現われた。『万松院殿穴太記』に「尾さきをば三重に堀切て、二重に壁を付て其間に石を入たり。」と記された遺構らしい。そこから北方の尾根へ、曲輪・土塁、堀切、帯曲輪などの城址縄張りが展開している。城址は雑木に覆われ展望も悪く決して広くもないが、曲輪、土塁、竪堀などの残存状態は悪くない。

中尾-南堀切 space_w 中尾-土塁 space_w 中尾-細曲輪
最南端の堀切と曲輪  土塁跡  北端曲輪へ続く尾根道

本曲輪群を探索したあと、主郭西側の土塁から西方尾根に築かれた出曲輪群へとつながる急坂を下る。帯曲輪、武者隠しのよう窪地を越え、よく踏み固められた堀切道のような山道を下りつづける。やがて、風化によって切岸も甘くなっているが、西方出曲輪群へとたどりつく。よく見ると曲輪・竪堀などが確認され、北側の曲輪には見事な土塁も残っている。出曲輪から銀閣寺を目指して急尾根を下っていくと、曲輪、竪堀、虎口などを思わせる地形が現われる。やがて、朝鮮学校を右手に見ながら、石垣が散在する広い削平地に降り立つ。その向うは、すでに銀閣寺裏だ。

中尾-出曲輪 space_w 中尾-出曲輪土塁 space_w 中尾-遠望
出曲輪に到着  出曲輪に残る土塁跡  哲学の道から城址を遠望

中尾城址は銀閣寺後方の山麓に居館、山腹に出曲輪、山上に主曲輪が営まれ、さらに大文字山から如意ヶ嶽の城址群によって近江へと通じるルートを確保している。一方、主曲輪群の北端からは志賀越え道が眼下に見下ろせ、対いの瓜生山から白鳥越え一帯には北白川城址群が散在している。銀閣寺を扇の要として、京と近江とを結ぶ幹線道路群を押える山上に山城群が築かれたさまは、まことに規模壮大なものである。将軍の城址群らしい規模といえばいえるが、その歴史をみると敗走路になるケースが多かった感も否めない。 by kuma
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2009年03月05日

京と近江を扼する如意ヶ嶽城

五山の送り火で有名な大文字山、その山上に如意ヶ嶽城址が残っている。はじめて築かれたのは応仁・文明の乱のころ(1467〜87)、東軍の将多賀高忠によってと伝えられている。如意ヶ嶽城と呼ばれるものの、如意ヶ嶽そのものは城址の東方大津寄りのところにある。また、大文字焼きが行われる所は城址西方の山腹であり、城址と山の呼称に関してはいささかややこしい。もっとも、如意ヶ嶽から大文字山は京都と南近江を結ぶルートのひとつで、京の鹿ヶ谷と大津の皇子山を結ぶ「如意越え」であり、呼称に関しては神経質になる必要はないのかも知れない。
平安時代、如意ヶ嶽には智証大師が園城寺別院として建立したという如意寺があった。その規模は園城寺を東門に、鹿ヶ谷楼門の滝が西門であったという壮大なもので、いまも山上から山腹にかけて寺院の遺構が散在している。如意越えは比叡山の南を通る「白鳥越え」「山中越え」と並ぶ重要な幹線道であり、源平争乱の時代より京と近江を往来する軍勢が集結、移動する拠点となった。そして、南北朝動乱のはじめの建武三年(1336)、兵火によって山上の如意寺は焼失、再建されることはなかった。

如意-寺跡1 space_w 如意-寺跡2 space_w 如意-寺跡3

応仁の乱ののち下剋上の世となり、将軍は無力化、幕政は形骸化していった。管領細川政元の暗殺をきっかけに細川氏の内訌が起こると、将軍も京に安閑と座していられなくなった。細川澄元と細川高国の抗争、高国と細川晴元の抗争、足利義晴と細川晴元の抗争、さらに足利義輝と三好長慶の抗争と戦い絶え間なく繰り返され、京と近江に通じる要衝を押さえる如意ヶ嶽城は軍馬が往来し破壊と修築が続いた。
城址は「如意越え」の道を取り込み、三角点のある頂上に主郭をおき、遺構は山上の尾根一帯に散在している。山上からの眺めは抜群で、天気に恵まれればはるか大阪から奈良方面まも見渡すことができる。城址を歩くと東方の緩尾根には三条の堀切が穿たれ、土塁を伴った木戸跡、尾根北方の斜面一帯に設けられたひな壇状の帯曲輪群跡、それを取り巻くように築かれた長い横堀跡などが見事に残っている。西方尾根にも曲輪が連なり、要所に土橋・堀切が穿たれ、なかなか規模壮大な山城である。

如意-土橋 space_w 如意-土塁木戸口 space_w 如意-主郭

如意-帯曲輪群 space_w 如意-切岸横堀 space_w 如意-西方竪堀

尾根を西山麓に下っていくと大文字焼きの火床に降り立ち、眼下の京都市街から西方の愛宕山までが一望できる。火床から続く急坂は銀閣寺へと下りていく。京都市街の展望を楽しみながら銀閣寺へと下っていくか、一旦、尾根まで引返して将軍義輝が三好長慶と対峙した中尾城址を目指すか迷うところだ。結論は、中尾城址を目指すことになったのはいうまでもないだろう。 by kuma
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2009年03月01日

大文字山から中尾山を縦走する

ウサと娘のポチとHYさんの四人で、大文字山から中尾山を縦走した。大文字山には如意ヶ嶽城址があり、北は銀閣寺より、南は蹴上より、東は大津の三井寺より、そして西は鹿ケ谷よりと様々な登りコースがある。ウサクマ一行が選んだのは、如意ヶ嶽の呼び名のもととなった如意寺跡をたどりながら大文字山・如意ヶ嶽へと登っていく鹿ケ谷コースだ。四条烏丸駅で203路線バスに乗り換え、真如堂前停で下車、登り口の目印である谷の御所・霊鑑寺を目指す。霊鑑寺すぐ右手の道に「此奥 俊寛山荘地」の石碑を確認、霊鑑寺の白壁に沿って坂道を登っていくと、道は円重寺、波切不動尊へと続き、やがて人家は途切れて談合谷へと入っていく。

大文字-菱形基線測点
目指す大文字山頂上にある菱形基線測点

コースは東山トレイルの一部だけに要所には案内板が立てられ、路面もよく踏み固められていて歩きやすい。とはいえ、渓流沿いの急坂であり油断は禁物だ。しばらく登り続けると、石垣や石段など僧坊跡と思われる遺構があらわれ、かつて寺院が存在していたことが実感される。一方、渓流には大小の滝が見られ、寺院跡の遺構とあいまって飽きさせない。さらに登っていくと、岩の上に「俊寛僧都忠誠之碑」が現われる。俊寛は後白河法皇の側近で、平家転覆の陰謀に加わり、鹿ケ谷の山荘で密議を凝らした。企ては多田行綱の裏切りで破れ、俊寛は遠く鬼界ヶ島に流された。世に名高い「鹿ケ谷の陰謀」事件で、談合谷と呼ばれるようになった故事でもある。石碑のある場所からは京都市街が眼下に広がり、俊寛らは京の町を見下ろしながら気勢をあげていたのではなかろうか。さらに登っていくと、ひな壇のような削平地、土塁などが現われ、一部の削平地には庭園跡と見えるところもある。ものの本によれば如意寺は、大津の園城寺を東門とし、鹿ヶ谷楼門の滝を西門とする広大な山域に堂舎が点在していたというが、それが誇張でないことが実感される。

大文字-登り口 space_w 大文字-西楼門跡 space_w 大文字-堀切道
霊鑑寺から山上へ出発  西の楼門跡といわれる遺構  山上へ続く堀切道

山道はよく踏み固められ、まるで堀切道のように山上へと続いていく。やがて、竪堀があらわれ、鹿ケ谷から登ってきた道と蹴上から上がってきた道、そして大津如意ヶ嶽方面からの道が合流する大文字四辻にたどり着く。そこからすぐ上が如意ヶ嶽から大文字山へ続く尾根で、見上げると竪堀が穿たれ見事な土橋が尾根をつないでいる。そこから三等三角点のある大文字山山頂まではあと一息だ。大文字山といえば五山送り火の大文字山を思い描くが、送り火が行われるところは三角点のある頂上から西方へと下っていった山腹にある。大文字山山上一帯には、応仁・文明の乱のころに城砦が築かれ、以後、乱が起こると城砦が築かれた。管領細川氏、近江守護六角氏、さらには将軍足利義輝らが京の争乱に際して大文字山山上の城砦を利用した。この山上を本丸とする城址は、如意ヶ嶽城と呼ばれたことから、大文字山、如意ヶ嶽の使い分けがいささか混乱する。

大文字-四辻 space_w 大文字-竪堀 space_w 大文字-木戸跡
大津から山科から…大文字四辻  尾根を穿つ竪堀  かつての木戸跡と思しき土塁

大文字-パノラマ space_w 大文字-横堀 space_w 大文字-土塁
山頂からの一大展望  城址には見事な横堀跡が残る  山上西側の土塁跡

大文字-西の岩 space_w 大文字-西の竪堀 space_w 大文字-火床から
西の門跡か?大石が  その先の尾根を穿つ竪堀と土橋  火床から市街を遠望

おりからの快晴もあって山上からの眺めは抜群、遠く大阪方面の高層ビルから奈良県の金剛山まで一大パノラマだ。山頂北側の尾根には如意ヶ嶽城址の曲輪がひな壇状に連なり、堀切、横堀、土塁も見事に残っている。頂上で昼食をとったのち、大文字焼きの火床に下って京都市街を展望、一度、尾根に戻って中尾山を目指した。中尾山には将軍足利義晴が築き、義輝が拠った中尾城址が残っている。そして、中尾城址をたどりながら尾根道は急坂となり、銀閣寺横の大文字山登山道へと降り立つ。行者の森石仏、八神社を経て浄土寺を左折すると、そこは銀閣寺の総門前だ。八神社鳥居のそばには由緒ありげな萱葺の門があり、表札を見ると「世継」とある。世継家は足利将軍に仕え、銀閣寺裏の砦を守ったという古い家で、上山春平氏の著作にも中尾城址発見の逸話として紹介されていた。実際に世継家の表札を見て、日本という国の歴史の古さというか、「ものもち」の良さというかが思われてなにやら可笑しかった。

中尾-堀切 space_w 中尾-主郭土塁 space_w 中尾-世継門
中尾城址最南端の堀切と曲輪  主郭南部の土塁  八神社鳥居横の世継家萱葺門

霊鑑寺から銀閣寺まで約四時間の山歩きは、鹿ケ谷一帯に散在する寺院跡、山上からの展望、そして山上一帯に残る城址探索と、まことに盛りだくさんな山歩きが楽しめるところだ。つぎは、蹴上方面から山上、火床を経て銀閣寺、いやいや銀閣寺横から千人塚を経て大津方面への縦走・・・などと、夢が広がっている。 by kuma
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