2009年02月28日

摂津川西に織田信長像を訪ねる

摂津国の北端に位置する川西市にある歴史文学博物館、そこに織田信長の像があると知ったのは北摂の国人領主塩川氏の歴史を調べる過程においてであった。歴史文学博物館は青山短期大学の構内にあり、「戦国三将の像」と名づけられ、短大創設者で学長でもあった塩川氏の発案によってつくられたものだそうだ。

三将の像
左から塩川長満、織田信長、森蘭丸、後方の天守閣様の建物が博物館

摂津川西はむかし多田荘のあった地で、ここにある多田神社は清和源氏の祖源満仲が創建した多田院がはじめである。多田院には源満仲、その嫡男の源頼光の廟所が設けられ、多田は清和源氏発祥の地として重視されるところとなった。鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、徳川幕府を開いた徳川家康をはじめ、戦国大名の武田信玄、佐竹義重、南部信直などなど満仲の子孫たる清和源氏は武家の名門としておおいに繁衍した。鎌倉幕府の成立後、多田を源頼朝は祖先の所領、また祖廟として尊崇し、周辺の武士を多田院御家人として安堵した。そして、室町時代になると多田院御家人は塩川氏を筆頭に国人領主化していった。

多田神社-遠望 space_w 多田神社-門 space_w 多田神社-瓦
社前は猪名川の激流が洗う  急な石段を登ると立派な山門  瓦には徳川家の三葉葵紋

やがて、戦国時代になると塩川氏は山下(一庫)城を築いて一帯を支配、摂津の有力戦国領主に成長した。織田信長が上洛したころの塩川氏の当主国満は、信長に帰順して本領を安堵された。『信長公記』によれば、鷹狩を好んだ信長は多田の地でも鷹狩を行ったが、そのとき塩川国満の嫡男長満が一献を進上したとある。また、信長は小姓森蘭丸を上使として山下城に赴かせ、銀子百枚を与えたともある。伝によれば信長の嫡男信忠の室は塩川氏といい、山下城主塩川氏は信長と緊密な関係にあったことがうかがわれる。
「戦国三将の像」は、まさに鷹を放たんとする織田信長を森蘭丸と塩川長満が介添するといった情景だ。短大創設者の塩川氏は、山下城主塩川氏の後裔にあたられるとのことで、郷土の歴史とみずからの祖を顕彰する想いがあったものと想像される。であったとしても、博物館の天守閣を模した外観には首を傾げてしまう。相方のウサは姪が青山短大の卒業生でもあることから、「塩川氏が私財をなげうったにしても、授業料の一部が使われたにしても、ちゃんと歴史的にうなずけるもでないとね〜」と呟いていたが、クマもまったく同感だ。いまとなっては空しいことだが、戦国時代当時の山下城主郭にあったであろう建物を考証、再現してほしかった。塩川氏の歴史を調べる一人として、何やら残念なことだ! by kuma
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2009年02月26日

嵐山城址から苔寺へ下る

先日、嵐山城址を攻略したあと鳥ヶ岳方面へ登っていくか、それとも引き返して苔寺に下山していくか悩んだ結果、苔寺を目指すことにした。嵐山駅方面への道と苔寺方面に通じる道との分岐点まで下山、そこから苔寺方向に面舵全開とあいなった。コースは松尾大社裏の尾根を南下し、苔寺へと通じるトレイルコースだ。よく踏み固められた快適な山道で、要所に標識も設けられ、まことに軽快な山歩きが楽しめた。
 
嵐山-案内図
分岐点の案内図
嵐山-分岐 space_w 嵐山-分岐点 space_w 嵐山-下山 
登り道から見た分岐点  案内板でコースを確かめる  堀切のような山道を下る  
嵐山-山道 space_w 嵐山-古墳1 space_w 嵐山-古墳2
まるで土橋のような道  途中には石室がむき出しになった古墳が散在している 
嵐山-羊歯の道 space_w 嵐山-雑木の道 space_w 嵐山-桂を見る
羊歯の生い茂った道   雑木林のなかの道  途中の尾根で桂方面のパノラマを楽しむ 
嵐山-篠の道 space_w 嵐山-竹林 space_w 嵐山-苔寺そば
軽快な山道が続く  竹林が現われると麓はすぐそこだ  苔寺を左手に見ながら上桂駅へ

京都には「京都一周トレイルコース」が整備され、それなりにハードな山歩きが手軽に楽しめるようになっている。今回歩いた松尾大社裏山のコースは、松尾大社を創祀した秦氏のものといわれる松尾山古墳群の存在でも知られたところで、歴史好きには嬉しいハイキングコースだ。途中には、松尾大社の磐座に通じるのではと思われる道もあった。こころ動かされるところであったが、酒好きのkumaとしては松尾の神様への冒涜になるようなこともならず、ズンズンと先を歩いていくウサを追っかけるカタチで苔寺へと下っていった。
ところで、西山の間逆に位置する東山にも「東山トレイルコース」が整備され、コースには北白川城、如意ヶ嶽城などの戦国山城が散在している。嵐山をたずねた翌日、さっそく北白川城址を攻略してきたが、東山のコースもまことに快適で、壮大な山城探索と併せて満足度十分なものだった。京都一周トレイルコースは、山歩きと山城(歴史)探索がセットとなっている。中世の道路の多くが尾根道であったことを思えば、山城がコースに存在していることは当然であり、将軍や戦国武将らが往来した道でもある。中世の道と山城がセットとなった山歩きコース、これは戦国ファンにとっては「まことに堪らん」ところではないか。  by kuma
posted by うさくま at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2009年02月24日

本箱の片隅からお宝本を発見

先日、ズッと以前に古本屋で購入していた『城と国家』という本を本箱の隅で発見した。哲学者で京都大学名誉教授の上山春平氏の著書で、副題が「戦国時代の探索」というものだ。「城」「戦国」という言葉に惹かれて買ったものだろうが、ザッと流し読みしただけで忘れてしまっていた一冊だ。
ここ二〜三年、関西の戦国山城を経巡っているが、城址探索において縄張り図の有無がいかに重要かということを実感。そして、みずから輪張り図作成を試みてみて、その作成がいかに難しく、独自の才能が必要なものであるかということを痛感した。ちなみに、むかしの刊行物はさておき、城址探索資料のエポックメーキングな出版物となった『日本城郭大系(新人物往来社:1980刊行)』の縄張り図と、それからのちに発刊された『図説中世城郭事典(新人物往来社:1987刊行)』に収録された縄張り図を見比べると、その仕上がりの飛躍的な進歩に驚かされる。以後、自治体による遺構調査など戦国山城の研究が進むにつれ、さまざまな城址の縄張り図が作成され、手軽に入手できるようになった。山城ファンにとっては、まことに嬉しくありがたい状況である。

城と国家

『城と国家』を改めて読み直してみると、上山春平氏が現在に通じる山城研究の先駆者の一人で、1981年当時において縄張り図の重要性を指摘されていることを知った。まことに迂闊なことだが、山城の探求方法というか楽しみ方というかがよく理解でき、山城への嵌り方も通じるところがあって面白く読めた。なかでも「京都の山城を探索する」と括られた嵐山、如意ヶ嶽、北白川など京都周辺にある山城の話は、実際に登るうえでも非常に参考になった。また、中世山城研究の第一人者というべき村田修三氏、滋賀県の中世城館悉皆調査にあたられた中井均氏との出会いなど、山城ファンは上山氏が敷かれた中世城郭研究の道筋を歩いていることを思わせるに十分な一冊だ。
ヒトというものは、すぐ近くに素晴らしいものがありながら気づかない・・・いい加減というか間の抜けたことだ。いま、『城と国家』を繰り返し読んでいるが、山城探索における歴史的視点の重要性、雑木に埋もれた城址から往時の城の姿を再現するうえでの縄張り図の重要性を教えられている。山城に嵌っているいまにおける『城と国家』との再会は、まるで何かに導かれたのではないかとすら思わせる。表紙のイラストが北白川城址の縄張り図であることに気づいたのは、実際に登った翌日の昨晩であった。
屋根裏部屋の段ボール箱に放り込んだままの本、本箱の隅に追いやっている本の中に、お宝本が埋もれているのでは?と思われ、一度、じっくり虫干しをしてみようかなどと考えている。でも、ホコリがすごいだろうし、ウサは嫌がるだろうな・・・きっと。  by kuma
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2009年02月23日

足利将軍の拠った城址群に登る

嵐山城址攻略に引き続き、足利将軍ゆかりの北白川城址を歩いてきた。嵐山城を築いた香西氏によって細川政元が謀殺されたのち、将軍職は足利義澄、義稙(義材が復位)、義晴、義輝、義栄、そして最後の将軍義昭へと継承されたが、誰一人として京に落ち着くということはなく流浪の生涯を送った。足利将軍は武家の頂点という立場から、たとえば、諸国の守護大名のように山城を築くということはなかった。それが、細川氏内訌による幕政の混乱によって、将軍職はときの権力者によって翻弄されるようになり、ついに足利幕府は京畿を支配するばかりの地方政権になりさがった。結果、将軍も京をめぐる争乱に巻き込まれ、ときには京を没落、北白川城、中尾城などに拠って京争奪戦を展開したのである。
北白川城は京から近江穴太に通じる白鳥越えを押える要衝にあり、永正十七年(1520)、細川澄元と対立する細川高国が六角定頼の支援を得て築いたことに始まる。以後、京をめぐる攻防の舞台となり、落城、修築が繰り返された。幕政を掌握した高国は澄元のあとを継いだ晴元と抗争、山頂から東の地蔵谷に城域を広げたが、享禄四年(1531)、晴元に敗れて高国が戦死すると北白川城も落城した。高国に擁立されていた将軍義晴は、享禄元年に京から近江朽木に落ち延びていたが、天文三年(1534)に六角氏の支援を受けて晴元と和解、帰京した。しかし、その後も晴元との対立は繰り返され、そのたびに京と近江を往来するということが続いた。
天文十五年、義晴は瓜生山上の北白川城を修築、晴元と対峙したが翌年敗れて近江坂本に逃走した。その後、義晴は将軍職を義輝に譲り、銀閣寺背後の山上に中尾城を築き京への復帰を目指した。義晴のあとを継いだ義輝は、晴元と結んで三好長慶と対立、北白川城は攻防の舞台となった。猫の目のように変わる時代を物語るかのように、北白川城は白鳥越えのものをはじめ瓜生山上、瓜生山南の尾根、地蔵谷沿いの尾根などに時代ごとの城址が点在している。足利義輝が拠った瓜生山城址の主郭は狸谷不動院の奥の院が鎮座し、社殿の後方の石室にはかつて勝軍地蔵が祀られていた。細川高国が戦勝を感謝して祀ったもので、北白川城が勝軍地蔵山城と呼ばれる所以となった。

北白川-城址マップ

北白川城址へは出町柳駅発鞍馬行の叡電に乗り一乗寺駅で下車、詩仙堂を経て狸谷不動院を目指す。不動院の本堂横から奥の院へ通じる道があり、城址のある瓜生山まで急坂を登ること十分くらいでたどり着ける。主郭にある奥の院へは堀切道が続き、両側には曲輪が連なり、土塁、切岸なども見事に残っている。奥の院の古びた社殿の裏をみると、かつて勝軍地蔵が祀られていたという石室がある。山上にあった古墳を半分に削り、改めて石を組んだものと伝えられている。城址は主郭を中心に西の尾根、南の尾根に曲輪が連続し、それぞれ広さも十分で、竪堀・堀切・土橋なども設けられている。主郭の東方にも曲輪が連なり、城址最大の見所というべき大堀切を隔てた東尾根にも曲輪が南北に連なっている。足利将軍をはじめとして幕府の役人らが拠っただけに、その規模はなかなか壮大だが戦国山城としてみれば大味な感がなくもない。

北白川-大堀
驚く規模の大堀切

北白川-主郭石室 space_w 北白川-切岸
主郭に残る勝軍地蔵が祀られていた石室   曲輪の切岸

勝軍地蔵山城から東方に展開する東山新城へは、堀切道、土橋を思わせる細尾根を辿っていく。山道は昔から人々が往来したものか、よく踏み固められていてとても歩きやすい。実際、瓜生山から白鳥越え、比叡山までは東山トレイルとして整備され、要所に案内板も設けられ、快適な山歩きが楽しめるところでもある。東山新城には四つの城址群があり、(2)(3)(4)の城址は若狭の武田氏が築いたものといわれるが、永禄期に六角氏によって築かれたとする説が有力だ。(2)(3)(4)の城址群は地蔵谷方面から登ってくる敵を意識し、(3)(4)は白糸の滝方面から登ってくる敵を意識した縄張りとなっている。(2)から比叡山方面に通じる北東尾根には(5)の城址があり、北白川城址群が京と近江を結ぶ要の城であったことが実感される。

北白川-23見上げる
地蔵谷方向から城址を見る-右手が(2)城址、左手が(3)城址で尾根伝いに(4)の城址へ続く
 
北白2-主郭 space_w 北白2-堀切
(2)城址の主郭、見晴らしはいまいち  (2)城址北端の見事な堀切

北白3-土塁 space_w 北白4-堀切
(3)城址東方の土塁跡         (3)城址と(4)城址を隔てる堀切

足利将軍家が没落したのち、北白川城は織田信長の部将明智光秀が修築して拠ったといわれるが、実際のところはよく分からない。いずれにしても、北白川城は足利将軍家とともに、その歴史を終えたといえそうだ。今回、(5)の城址と瓜生山の南尾根に築かれた城址を攻略することができなかった。それだけ、北白川城址群は城域も広く、それぞれの規模も大きいところなのだ。今回、ウサは体調不良で自宅待機となったが、次は白糸の滝から南尾根城址群を攻略、(5)の城址を経て近江穴太へ抜ける山上トレッキングを目論んでいる。 by kuma
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2009年02月22日

京都市内、初めて築かれた山城に登る

戦国時代、日本各地には山城が築かれた。しかし、幕府のあった京都洛中は将軍のお膝元ということもあって、山城が築かれることはなかった。そんな京都における山城の初めが嵐山城で、以後、京都周辺にも山城が築かれるようになった。とくに明応の政変による将軍権力の失墜、幕府管領細川政元暗殺後の内訌による幕府の動揺によって立場を失った将軍は近江に逃亡することが多かった。それもあって、京都の山城は北白川城、中尾城など洛中から近江に通じる山に築かれたものが多い。嵐山城は細川政元暗殺の首謀者である香西元長が築いた山城で、その出現は室町幕府終焉の序曲を奏でるものでもあった。
 
嵐山-京都遠望
 
嵐山城は桂川(保津川)を東に見下ろす嵐山山頂にあり、阪急嵐山駅の改札を出た左手の山麓に登り口がある。廃屋と駐車場の間を抜ける細い路地のような道を入っていくと、竹薮のなかの急坂へと続くが道はよく整備されている。山頂の城址に向かって登り始めると、すぐに曲輪?、竪堀?と思わせる地形が現われるが城址はまだまだ先の山上だ。ひたすら登っていくと苔寺方面との分岐点に到達、案内板の通りに右手の崖に沿った山道を、またひたすら歩いていく。と、虎口の石垣?と見間違う大岩が現われ、その上方の小山も曲輪跡?と思わせるが、城址はまだまだ前方はるかに見える嵐山山頂だ。しかし、そこから城址へと続く登り道の傍らには、虎口?曲輪?土橋?土塁道?といった城址遺構を感じさせる地形が続く。

嵐山-苔寺分岐点 space_w 嵐山-大岩
苔寺への分岐点、右方向へ  城址?と思わせる大岩、先は長い

嵐山-馬の背道 space_w 嵐山-城址へ
土橋を思わせる尾根道  城址の南曲輪に到着

嵐山-石垣 space_w 嵐山-主郭
主郭に続く二の曲輪に残る石垣  主郭にはケルンが

嵐山-北曲輪切岸 space_w 嵐山-最南端堀切
北曲輪から見た主郭の切岸  最南端曲輪下の堀切


長い細尾根を越えると城址最南端に穿たれた堀切が現われ、そのすぐ上の小山が城址最南端の曲輪で、城址はそこから北方の尾根全体に展開している。南曲輪から眼下に広がる景色はまさに絶景、保津川、嵐山から京都市街はもとより遠く比叡山までの一大パノラマである。南曲輪で昼食を摂り小休止したのち、城址の探索をスタートする。南曲輪の北側には土塁が残り、その向こうは堀切、南曲輪を回避しつつ攻め上ってきた敵軍はここで挟撃にさらされたであろう。堀切を越えて急坂を登ると階段状に曲輪が設けられ、一部には石垣も残っている。主郭は北のピークにあり、その北側には帯曲輪、最北端部には虎口状の枡形が確認できた。ただ、城址は全体的に雑木、藪化が進み、土塁や切岸、堀切、石垣遺構なども風化にさらされつつあり、関係機関による保存措置がとられることを切に願いたい。
嵐山城を築いた香西元長は細川澄之を擁して権勢を振るったが、それもつかの間、細川澄元の反撃によって滅亡、嵐山城も西岡衆の攻撃を受けて落城した。その後、嵐山城は修復され、細川晴元らが断続的に拠ったことが当時の記録から知られる。ところで、山麓から嵐山山上の曲輪群まではあまりに遠く、城址が防御主体のものであったとしても下界とかけ離れすぎていると思わざるをえない。食料や武器の備蓄、戦闘人員の収容、攻守の駆け引きなどから考えても、山上に至る途中に散在していた城址と思しき所も曲輪だったのでは?と思われるのだがいかがだろうか。
登る途中で道連れになった地元の方によれば、嵐山から松尾山、苔寺方面の山は、西山トレイルとして整備が行き届き登山客も多いという。たしかに、登山道の要所に案内標識が設けられ、嵐山城址まで軽快な山歩きを楽しみながら迷うことなくたどり着くことができた。戦国ファンならずとも、嵐山トレッキングを楽しみながら城址も楽しめるという格好の山歩きスポットといえそうだ。 by kuma
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2009年02月21日

一月の愛宕山を振り返る

雨や曇りでない限り、出掛けるたびに真っ正面に見える愛宕山。12月に続いて、一月の様々な表情を振り返ります。

愛宕0105 愛宕0107 愛宕0108
一月五日 うららかな朝 → 七日 → 八日
愛宕0109 愛宕0111 愛宕0112
九日 山頂は雪 → 十一日 → 十二日 珍しく街も雪景色
愛宕0113 愛宕0114 愛宕0115
十三日 → 十四日 山は雪に覆われた → 十五日
愛宕0116 愛宕0117 愛宕0120
十六日 → 十七日 → 二十日
愛宕0121 愛宕0123 愛宕0124
二十一日 → 二十三日 → 二十四日 春のような風景
愛宕0125 愛宕0126 愛宕0127
二十五日 → 二十六日 → 二十七日
愛宕0128 愛宕0130 愛宕0131
二十八日 → 三十日 → 三十一日 久しぶりの雪模様

正月は不在だったため、元旦の愛宕山が撮れなかったのが残念だが、愛宕山を見続けることで日々の変化が楽しめる。また、暖冬を裏付けるかのように、雪景色の愛宕山はまことに少なかった。つぎは二月の愛宕山を、カミングスーンです。 by kuma
posted by うさくま at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛宕山

2009年02月20日

雨の日は東大のDBを徘徊する

東京大学史料編纂所は、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っているところとして超有名な研究機関だ。そして、ここののホームページで公開されているデータベース検索のページが素晴らしい。中世の武家系図の資料を探すためにアクセスしたのだが、膨大な系図資料に圧倒されるとともに、データによってはウエッブブラウザ上で画像を閲覧できるのだ。おりをみては系図データベースにアクセス、従来では見る事のできなかったであろう史料を堪能している。

史料編纂所の画面
はじめは面倒だが、慣れてくると見たい画面にすぐアクセスできるように…

東京大学史料編纂所の歴史を調べてみると、その起源は江戸時代の寛政五年(1793)というから古い。歴史研究に欠かすことのできない『群書類従』を編纂した塙保己一の和学講談所が母体というのにも驚かされる。『群書類従』は膨大な古記録集成であり、その中でも「系図部集」は中世武家の系図を調べるときに必ずお世話になる資料であろう。kumaにとっても『尊卑分脈』と並ぶ座右の史料である。その塙保己一に史料編纂所が連なると知って、何やら旧知のところのような気がしてくるから不思議なものだ。

研究者の方はともかくとして、歴史好きの方でご存知のない方がいらっしゃれば、ぜひアクセスして欲しい。そのデータベースの物凄さに圧倒され、感動されること必定だ。もちろん、閲覧史料は原本を模写したものであり、その内容に関しては史実と照らし合わせながら利用するという姿勢が基本にはなるが・・・。晴れた日は山城や神社をめぐり、雨の日は史料編纂所のデータベースをウロウロするという日が続きそうだ。 by kuma
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2009年02月15日

篠山、荒木氏の城址を登る

デカンショ街道と国道173号線が交差する安田交差点を綾部方面に曲がり、しばらく走ると細工所交差点があらわれる。細工所一帯は村雲と称され、古くは草上里と呼ばれていた。戦国時代、村雲の地を領して勢力があったのが荒木氏であった。荒木氏は波多野氏に属して交差点東方の山上に荒木城、大手山麓に細工所砦、籾井川を隔てて栃梨城、西方の県守に口県守城、東本庄に市谷城などの支城群を築き、篠山東北方に隠然たる勢力を誇った。

荒木-マップ

荒木城は細工所城・井串城とも呼ばれ、史料によれば天文年間末(1550年ごろ)に荒木城守氏香(氏綱ともいう)が築いたものだという。山城守氏香は波多野秀治に属し「丹波鬼」と恐れられた勇将であったが、天正五年(1577)、明智勢の猛攻をうけ激戦のすえに落城、降伏したと伝えられている。荒木城址には二年前に登ったが、主郭はもとより曲輪群の広さに驚かされ戦国山城としての規模の大きさを実感した。しかし、そのときは主郭からの八上城遠望、主郭周辺の曲輪群を散策しただけで下山するという淡白なものであった。
その後、縄張り図をながめ、細工所界隈を通るたびに、荒木城の大手方面から主郭に通じる尾根、西方、東方、北方の尾根に展開する曲輪群をじっくり踏査せねば!との気持ちが強まっていった。かくして、年初に栃梨城を攻略、つづいて籾井城八百里城に再登山したことで、機は熟したとばかりにウサッチと細工所界隈へ出撃した。ところが、土曜日は生憎の空模様で、荒木城攻略はおいて荒木氏の支城で領内監視の拠点になっていたという口県守城址を攻略。で、天気に恵まれた今日、荒木城を再攻略してきた。

荒木-県守館 space_w 荒木-籾井川
口県守城址                 籾井川方面より荒木城址を遠望

前回は集落奥の池側から尾根に取り付いたが、今回は本来の大手である細工所砦に通じる道から城址を目指した。と、足元を蛇が通り過ぎていくではないか!啓蟄までは二週間以上もあるというのに、この週末の暖かさに釣られて迷い出てきたものであろう。小曲輪を経て虎口状の遺構を通り過ぎると、居館があったとおぼしき広い曲輪があらわれる。曲輪の北側には土塁跡、山側には高台を経て尾根と居館部を隔てる大きな堀切が穿たれている。堀切の北端に荒木城址への標識が設けられ、そこから山上まで登山道が続いている。しばらく登ると、南尾根に設けられた曲輪にたどりつく。切岸も高く、先端部は堀切と土塁が明確に残り、木々に遮られているが栃梨城址が籾井川を隔てて間近に見えている。南尾根曲輪から先は一層の急斜面となり、小曲輪をたどりながら山上にある主郭南西部の虎口へとたどり着く。

荒木-大堀切 space_w 荒木-南曲輪
細工所砦尾根側の大堀切        南尾根曲輪の切岸と堀切

主郭は変わらぬ広さで木々もほどよく伐採されており、八百里城址や淀山城址に比べると探索は軽快だ。まず、主郭北方の曲輪に下り、主郭から東尾根に続く曲輪を探索する。主郭東端の高い切岸、直下の曲輪から土橋、堀切を経てさらに東の尾根に設けられた曲輪へと進む。先端曲輪群は藪化が進んでいるが、切岸、竪堀、帯曲輪などがよく残っている。主郭に引き返し一息いれてのち、北西方の曲輪群を探索する。主郭西直下の曲輪下方に穿たれた堀切を越え、西方尾根の細尾根を越えると細長い曲輪が続き、最北西端の曲輪にはL字形の土塁跡が残っている。西北端に続く尾根とは切岸、竪堀、堀切で区切られているが、大手方面、東尾根に比べると防御という点にいささか不安を残す感がある。荒木城は天引峠を越えてデカンショ街道を西進する敵軍を、東南方の籾井城と連携しながら迎撃する任を担っていたことが城址を歩いてみてよく実感できる。

荒木-主郭 space_w 荒木-北曲輪
主郭南側の武者走り           北曲輪から見上げる主郭の切岸

荒木-主郭南切岸 space_w 荒木-土橋
主郭南端の高切岸            東尾根曲輪の堀切と土橋

明智軍と丹波勢との戦いは「井串極楽、細工所地獄、塩岡岩ヶ鼻立ち地獄」という俗謡が残っており、細工所では激戦が展開され多くの城兵が戦死したことが知られる。明智軍に降伏した荒木氏綱は、明智への仕官をことわり東本荘の館に引き籠もった。その後、神尾山(本目)城主の野々口西蔵坊とともに、波多野秀治に降伏を説いたと伝えられる。嫡男の氏清は光秀に仕え、本能寺の変を経て山崎の合戦に出陣して戦死したという。かくして、荒木一族の城塞群は使命を終え、人々の記憶からも薄れていったようだ。しかし、今回登ってみて、要所に城址への案内標識が立てられ、登山道もほどよく整備されている。山城はアッという間に藪化が進むものだけに、地元の方によって手入れが続けられていることは、まことにありがたく頭が下がった。 by kuma

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2009年02月14日

篠山、八上城攻めの本営となった城跡

天正三年、織田信長から丹波攻めを命じられた明智光秀は、波多野氏、赤井氏らの抵抗にあって悪戦苦闘を重ねた。丹波武士らのの抵抗を一つ一つ潰していった光秀は、天正六年、ついに八上城を包囲した。その最前線の本営となったのが、篠山川を隔てて八上城を正面に見る般若寺であった。そして、一年間の包囲戦の末に波多野氏は降伏、八上城は陥落した。降伏した波多野秀治と明智光秀が対面したのも般若寺であったという。その後、秀治は神尾山城を経て安土に連れて行かれたが、信長は秀治を許さず安土城下の慈恩寺において処刑した。秀治の死によって、多紀郡の中世は幕が引かれたのである。

般若寺と八上城址 space_w 般若寺遠望
般若寺城址と八上城址(左)      般若寺城址主郭を遠望

そもそも般若寺は、秀治が祈願寺として八上城の鬼門にあたる地に建立したもので大松山般若寺と号した。天正の兵乱で廃絶したのち、江戸時代になって浄土宗の蓮法山正覚寺として再建され現在に至った。正覚寺の本堂あたりが明智軍の本陣で、背後の山上に城塞が築かれていた。城址へは東山麓から分け入り、うっすらと山上に続く道をたどると十数分で東山上の主郭に到着する。そこから西方へ曲輪がつづき、堀切を隔てた西側の山上にも曲輪が築かれている。また、正覚寺を包むようにはり出した東西の尾根にもそれぞれ曲輪が築かれていた。般若寺城址からは八上城址が真っ正面に見えるものと期待していたが、山上は雑木が生い茂った薮状態で視界はまったく効かない。西側の曲輪とを隔てる堀切まではなんとか移動できたが、そこから先の探索はあきらめざるを得なかった。主郭に戻ると何やら廃棄物が、見るとアンテナ、電化製品、電柱?などが捨てられている。薮化の進行はともかくとして、ゴミ捨て場と化しているのはいかがなものか!と腹が立つより哀しくなった。

般若寺-正覚寺 space_w 般若寺-主郭
正覚寺山門越しに城址を見る     主郭東方の切岸

般若寺-南尾根曲輪 space_w 般若寺-八上城址遠望
南尾根曲輪の切岸と帯曲輪      正覚寺後方より八上城址を見る

般若寺城址は篠山盆地における戦国時代の主要舞台となった所として、篠山五十三次の一つに数えられ正覚寺の山門横には篠山五十三次の説明板も立っている。しかし、城址を歩いてきた限り、歴史に見合った対応がなされているとは思われなかった。ちょっとの整備と心配りで、立派な歴史スポットになる所だけに残念だ。 by kuma
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2009年02月12日

琵琶湖一周、190円の旅

2006年秋、滋賀県北部のJR北陸線と湖西線が直流に一本化されたことで、京阪神から敦賀まで直通新快速が運行されるようになった。これによって、いままで近江今津から近江塩津までの乗り継ぎの悪さが見事に解消された。JRには「大都市近郊区間内のみを利用する場合の運賃計算の特例」があり、重複しない経路をうまく選べば、一区間分の普通運賃で長距離を乗ることができる。いわゆる出発地から目的地まで最短キロの切符で乗車経路を自由に選べるというもので、かねてより、この特例を利用して琵琶湖一周の旅を目論んでいた。昨日、ウサが出かけてしまったため、急に「琵琶湖一周に行こう!」と思い立ち、京都駅から大津駅までの190円の切符を手に、小さな鉄道旅行を楽しんできた。

琵琶湖01 青の▲矢印 琵琶湖02
京都駅10:45発の新快速を待つ     敦賀行新快速が入線
琵琶湖03 青の▲矢印 琵琶湖04
開発が進む堅田駅前            琵琶湖独特の漁法「エリ」が見える
琵琶湖05 青の▲矢印 琵琶湖06
山上は雪が舞う比良山           近江今津駅から北方を見る、雪は少ない
琵琶湖07 青の▲矢印 琵琶湖08
ドアの開閉は手動だ             永原あたりの湖北の風景
琵琶湖09 青の▲矢印 琵琶湖10
近江塩津に到着、ここも雪はない     右敦賀方面へ、左乗り換え大津方面へ
琵琶湖11 青の▲矢印 琵琶湖12
余呉駅ホームから余呉湖を見る      河毛駅から見た小谷城址
琵琶湖13 青の▲矢印 琵琶湖14
秀吉と三成の出会いが銅像に        米原駅に到着、ここで車両が増設される
琵琶湖15 青の▲矢印 琵琶湖16
彦根駅手前、佐和山城址が左手に    能登川を出ると右手前方に安土城址
琵琶湖17 青の▲矢印 琵琶湖18
鉄路は大津方面へ、左手に三上山が   大津駅13:35に到着
琵琶湖19 青の▲矢印 琵琶湖20
琵琶湖一周190円の旅が終了      浜大津から琵琶湖を見る

京都から湖西線→北陸線→東海道本線をめぐって大津まで、約二時間五十分の行程であった。湖西線では左手に比叡から比良の山並み、右手に琵琶湖がず〜っと広がり、旅行気分が盛り上がる。ただ、暖冬のせいであろうスキー場で知られるマキノあたりにまったく雪はない。近江塩津駅から米原まで、湖北とよばれる一帯にも雪はなく、二月とは思えない風景が広がる。雪景色を期待していただけに、これには残念というより驚かされた。琵琶湖の周囲には、小谷城址、佐和山城址、安土城址などが点在し、それぞれ電車の窓から見ることができ、戦国ファンにとってはたまらない鉄道旅行である。今回は急に思い立ったことでもあり準備不足を痛感、ちゃんと見所をチェックし地図なども準備し、ウサを誘って再チャレンジしようと思っている。琵琶湖一周の旅は春夏秋冬すべてに楽しめそうで、しかも安い!これははまるかも・・・。 by kuma
posted by うさくま at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年02月11日

篠山、畑一族の城址群に登る。

篠山市街の北方に屹立する多紀連山の南山麓はかつて曽我部荘とよばれ、南北朝期からは畑荘と称された。その畑荘の瀬利にある八百里山は、その美しい山容もあって古代より神南備山として崇敬された。いま、畑宮に鎮座する佐々婆神社もかつては八百里山にあったといい、いつのころか現在の地に遷座されたという。さらに畑荘は、多紀連山に栄えた三嶽修験道とも関係の深い地であった。南北朝時代以来、八百里山上に城を築き畑荘を支配したのが国人領主畑氏であった。八百里の畑氏は新田義貞に仕えた畑六郎左衛門時能の子孫といい、丹波守護細川京兆家に属して頭角をあらわした。応仁の乱ののち、京兆家内衆の波多野氏が丹波に勢力を拡大すると、籾井氏・波々伯部氏らとともに波多野氏に属し一方の旗頭となった。畑氏は大渕に普段の館を構え、本城の八百里城を拡充し、支城の奥畑城に一族を配するなどして乱世に身を処したのである。支城の奥畑城は茶臼山城ともよばれ、明徳の乱で没落した山名氏の残党が応永の乱に籠城した城として知られる。おりをみて山名氏を調べていることもあって、丹波における山名氏ゆかりの城址として奥畑城は気になるところであった。一方の八百里城は、畑氏の歴史探索や篠山五十三次めぐりなどで何度か訪ねたところで、登山は一昨年に続いて二度目だ。

八百里・奥畑

まず、奥畑城である。城址は奥畑集落後方の山から東方に突き出た尾根上にあり、見たところまことに小ぶりなものだ。応永の乱で山名残党が拠った城が、多紀郡内の要害に数えられる八百里城ではなく、奥畑城では拠点としても作戦的にも拙いと思わざるをえない。おそらく、細川氏に味方した畑氏の抵抗にあった結果であろうが、奥畑城ではどう見積もっても勝ち味はない、ひょっとして三嶽修験者たちが山名氏に味方して後詰をしたのだろうか…そのようなことを考えながら山上の遺構を目指した。まず、縄張り図を見ながら登り口を探すが、道らしきものはない。「えいや!」と尾根に分け入って、雑木を掻き分けて登ること三十分ばかり、城址西方曲輪下の堀切にたどり着いた。さらに西方の尾根にも堀切が穿たれ、東方尾根に展開する曲輪群の独立性を保っている。西の曲輪は切岸も明確で攀じ登ると土塁が残っている。そこから、東方の主郭方向へ曲輪が連続する。北方は急峻な谷で、東端は急な崖になっている。奥畑城の虎口は主郭の南側にあったというが、いまは大きく崩落して往時の構えを想像することはできない。登ってみても小ぶりな縄張りの城で、畑氏時代のものと思われるが、この規模では山名残党が呆気なく潰えたことがよく理解できる。下山は登ってきた道を引き返そうとしたが、すでにどこを登ってきたのかは分からない。遠くではハンターが撃っているらしい猟銃の発射音が聞こえ、戦国時代の明智軍の攻撃も「斯くや!」などと妙な臨場感を味わう。しばらく下りると薄いが山道がある…、そこを辿っていくと何と呆気なく下山してしまった。椎茸栽培や山仕事に利用する道のようで、城址への楽々コースといえそうだ!

  奥畑-遠望 space_w 奥畑-堀切
奥畑城址を見る  城址西尾根の堀切

奥畑-切岸 space_w 奥畑-石垣
西曲輪の切岸  主郭の石垣状遺構

奥畑城を攻略したのちは、八百里山城攻略だ。以前に登ったときは、登り道がよく分からず雑木に覆われた急坂を直登、やっとの思いで磐座(古墳の石室か)のある尾根にたどり着いたことを思い出す。そして、そこに鎮座するお稲荷さんへ通じる参道が本来の登り道であることも知った。で、今回は、まず前回見落としていた南西尾根上に残る出曲輪と竪堀を探索する。そして、磐座・お稲荷さんのある曲輪へ、そこから山上に残る遺構群へと登っていった。山上に続く尾根道は急峻で、戦国武士たちはこの道を甲冑に身を固め武器を携行して上り下りしたかとを思うと、その壮健ぶりに驚かされる。山上に残る城址の縄張りは、東南端から北西方向へ曲輪群が連続し、各曲輪間の切岸も高く、主郭には土塁、高櫓があったかと思われる土台もある。主郭から西北に連なる曲輪群との切岸も十分な高さで、最北西端の曲輪との間には大堀切が穿たれている。この堀切とその先の曲輪群で北西尾根からの敵襲を防御し、それぞれの曲輪南西側に設けられた帯曲輪により瀬利方面からの攻撃に備えていたことが見て取れる。各曲輪は雑木に覆われ、藪漕ぎを強要されるところもある。さらに樹木に邪魔されて、見通しもガッカリするほどによくない。しかし、竪堀・切岸・土塁・大堀切がよく残り、かつて武器として使用したものであろう矢竹の子孫?が生い茂っているなど、見所の多い戦国山城である。

八百-磐座 space_w 八百-切岸
中腹の磐座(古墳跡か)  山上曲輪の切岸

八百-土塁 space_w 八百-堀切
主郭東側の土塁  北西曲輪の大堀切

畑氏は明智光秀の丹波攻めには波多野氏に属して頑強に抵抗、黒井城から敗走する明智勢を細見氏とともに打ち破ったこともあった。しかし、天正七年、波多野秀治が光秀に降伏、八上城が陥落すると、明智軍は八百里城に押し寄せた。畑守国・能国兄弟をはじめとした畑一党は、敢然と迎え撃ち、奮戦ののちに兄弟は戦死したという。この畑氏の最後によって丹波の中世は終わったといえよう。丹波の中世における画期となった八百里城址だが、いま、確実に自然に帰りつつあることが残念に思われた。お稲荷さんの祠も数年ののちには朽ちてしまうように見える、「むかしは遠くなりにけり」まことに寂しいかぎりだ。 by kuma
地図:地図閲覧サービス(ウォッちず)から転載。 縄張図:戦国・織豊期城郭論の茶臼山城址・八百里城址から転載。
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2009年02月10日

篠山、淀山城址を再攻略する

籾井城址をあとにしてデカンショ街道を篠山方面へと向かう。安田交差点を経て小野新の交差点を左折、小さな峠を越えると辻集落へと出る。峠を下りたすぐ右手前方の小山が淀山城址で、はるか西方には八上城址のある高城山が横たわっている。淀山城は祇園社領の波々伯部保に割拠した波々伯部氏の本城で、南北朝時代、足利尊氏に属して功のあった波々伯部為光が築いたものと伝えられる。波々伯部氏にはいくつかの流れがあったようだが、久下・長澤・酒井氏らとともに丹波生え抜きの武士であった。室町幕府に出仕して国人奉行を務めたものもいるが、細川氏の内衆波多野氏が八上に拠って勢力を拡大してくると、やがてその麾下に属するようになった。そして、波多野秀治が丹波の戦国大名になると、波々伯部光政は淀山城を主城に、東山城、南山城を築いて一族を配し、八上城の東口守備の任をになった。

淀山-マップ

淀山城址は二年前にウサと一緒に登ったが、そのときは満足な縄張り図もなく、ただ淀山城址があるという情報だけで西側山麓から闇雲に直登したことを思い出す。今回、縄張り図などを見ると南西方に登り口があったようだが、そこは溜め池の水が落ちる堰の部分であり渡れそうもない、ということで東側山裾の溜め池側にある竹やぶから城址へ分け入った。竹やぶはすでに居館跡の佇まいで、見ると山裾を北側にまくように薄い道があり、そこを登っていく最北端の曲輪下へとたどり着いた。そこから、尾根を登り、しばらく歩くと見事な堀切があらわれる。大堀切の左右には竪堀が掘られ、上方の北曲輪とは十メートルはあろうかという高い切岸で隔たられている。遺構もよく残り、なかなかの要害であることが実感される。西方の帯曲輪をたどりながら北曲輪攻略を目指すが、結局、道はなく急坂を直登した。登りきると有に三百坪はあろうかという広さで、南側は堀切が穿たれ、高い切岸上に主郭が見える。

淀山-堀切 space_w 淀山-竪堀
最北端の削平地と北曲輪間の大堀切  北曲輪東面の竪堀

主郭へは東方の帯曲輪を巻いていくと、かつての大手道と思われる登り道に出る。登り道をたどると雛壇状に曲輪が連なり、虎口を経て主郭に至る。主郭の南側には土塁が築かれ、主郭南直下の曲輪とは十分な切岸で隔てられている。主郭の東方から東南の山裾には帯曲輪が連続し、井戸曲輪には崩れ落ちた井戸跡が残っている。そこから、かつての大手と思われる道が続いており、雑木を縫って下っていったが、ため池から流れ出す用水路で行き止まりであった。最初に取り付いた場所へ引き返すため、東側の急な斜面を慎重に進んでいく。斜面には竪堀・帯曲輪が随所に設けられ、横堀から竪堀へと連続する遺構と土塁で防御された帯曲輪も残っている。実際に歩いてみて、淀山城は安田方面から伸びてくる京街道を扼する城として、東方に防御施設が集中していることが体感される。この淀山本城と東南の東山城、すぐ南の南山城との共同作戦で、峠を越えてきた敵軍は少なからぬ犠牲を強いられたことであろう。

淀山-主郭切岸 space_w 淀山-主郭の碑と土塁
北曲輪南側の堀切から主郭を見る  主郭の顕彰碑と土塁跡

淀山-礎石 space_w 淀山-登り口
主郭下の曲輪に残る礎石  登り口に戻る

城址全体としては雑木・竹薮化が進行、自然に回帰しつつあることは否めないが、戦国山城として十分に楽しめる城址だ。とはいえ、かつて神社があったという主郭下の曲輪には礎石が残り、主郭には城主波々伯部氏の子孫の方が建立された顕彰碑がたたずんでいる。おそらく、昭和初期までは先祖に関わるところとして崇敬の念が寄せられていたことと思われる。それだけに、二年前と変わらぬ荒れ果てた状態であることに心痛むものがあった。これまで戦国山城をいくつか巡ってきたが、篠山に限らず忘れ去られようとしているものが多い。時代の趨勢といえばそれまでのことだが、郷土の歴史と深い関わりをもつものだけに、なんとか未来に伝えるための保存措置がとれないものだろうか。クマ的にも荒れた山城が続いて、ウサがやや退屈してきているのがツライのだ。 by kuma
写真:Google の航空写真を転載。 縄張図:戦国・織豊期城郭論の淀山城址から転載。

posted by うさくま at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2009年02月09日

篠山、籾井城址を再攻略する

ここのところ、週末になると天気がスッキリしないことが多かった。さきの土日は好い天気という天気予報を信じて、篠山界隈の山城攻略計画を練った。で、土曜日は嬉しい晴天!さっそくウサ公を誘って篠山に出陣、戦国山城に登ってきた。まず土曜日は籾井城址→淀山城址→般若寺城址→冬枯れの土居の内を、翌日曜日は奥畑城址八百里城址を攻略した。籾井城址・淀山城址・八百里城ともに一昨年の前半に集中して登った城ばかりだ。しかし、その後に資料をみるにつけて見落としが多かったことに気付かされ、それぞれ再攻略を期していた。いささか強行軍であったが、天気もよく十分に楽しめた。まず、篠山の東方に位置する籾井城の攻略から、リポートを進めていきたい。 

籾井城址 

篠山へ行くには、いつもデカンショ街道と呼ばれる国道372号線を利用する。京丹波側から天引峠を越えて篠山盆地に入ると、籾井一族が城砦を構えていた福住だ。天引トンネルを抜けると、すぐ右手前方に安口砦、ついでその西方に籾井城が現われる。籾井城は安田城とも呼ばれ、西南山麓の安田交差点はデカンショ街道と摂津池田から丹波綾部へ抜ける国道173号線とが交差する交通の要衝である。その要地を支配したのが籾井氏で、永正ごろ(1504〜21)、籾井河内守照綱が城を築いてのち三代の居城となった。幕府管領細川氏の内衆として丹波に進出した波多野氏が八上城を築き、丹波の戦国大名に成長すると籾井氏は波多野氏の娘を室に迎えるなどして威勢を振るった。最後の城主籾井綱利は「丹波の青鬼」の異名をとり、波多野氏の有力部将として行動した。やがて織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めが開始されると、父綱重が拠る安口城と連携して明智軍を迎え撃った。天正四年十一月、丹波に侵攻した明智軍と激戦を展開、撃退する戦いぶりをみせた。しかし、翌天正五年(1577)十一月、明智軍の丹波再攻の前に籾井一族の城砦は陥落、本明谷に打って出た綱利は奮戦のすえに討死したと伝えられている。 籾井城址は南方を籾井川が流れ、大手は西方の安田側、搦め手は東方の本明谷であったという。現在、城址への登り口は南麓にある禅昌寺側にあり、そこから登山道が遺構の残る山上まで続いている。二年前に登ったときにはなかった階段が随所に設けられ、真新しい案内板も配されているなどよく整備されている。とはいえ、急坂の尾根に続く階段登りは予想以上につらいもので、最南端の曲輪にたどり着いたときには思わず「ホッ」とため息をついた。

籾井-本丸 space_w 籾井-堀切
主郭の切岸  南西曲輪の大堀切

籾井城の縄張りは主郭を中心に、登ってきた南尾根、西方、東方、北方の各尾根に曲輪、堀切、竪堀などが築かれている。最南端の曲輪から主郭へと雛壇状に続く曲輪の切岸もよく残り、主郭西方の尾根に穿たれた大堀切はその深さもあいまって見応え十分だ。主郭には籾城跡の碑が建てられ、かつて格好の遠足コースだったという時代にあったという休憩所跡の基礎が残っている。木々も程よく切られているが、天引峠方面、安田交差点方面の見通しが悪いのが残念だ。
主郭北方に連なる曲輪群はそれぞれ十分な広さを有し、主郭とは高い切岸で隔てられている。土橋を持った堀切を越えて最北端の曲輪に至ると、横矢掛けをもった虎口が北西端に設けられている。安田方面から登ってくる尾根道は虎口下方において両側が急斜面となり、攻撃軍は身を隠すところもなく虎口方向からの迎撃にさらされることになる。一方、東方の尾根に続く曲輪群と、主郭のある曲輪とは土橋と片堀切で結ばれ、最東部の曲輪は十分な高さの切岸と二重の土橋を持った堀切で尾根を断っている。

籾井-土橋と堀切 space_w 籾井-南西虎口
最北端曲輪を隔てる堀切と土橋  最北西部に設けられた虎口

籾井-東土橋 space_w 籾井-東片堀切
主曲輪群と東曲輪群を結ぶ土橋と竪堀  最東端曲輪と尾根を穿つ堀切

籾井城は南麓の籾井川を隔てて東西に貫通する京街道側の守備を難くし、北方の山々をもって北西の荒木氏の城砦群、東方の安口城などと連絡を保っていたようにみえる。なかなかの堅城であったことは疑いないが、プロ化した軍団と物量に勝った織田軍の攻撃には抗しきれなかった。たしかに、綱利ら籾井一族は武勇をもって一度は明智軍を撃退したが、それが限界であった。波多野軍団も籾井城も戦意はともかくとして、装備などは時代遅れになっていたと思わざるをえない。いまも昔も戦いの帰趨は、武器の優劣に左右されることは変わらない。 by kuma
地図:地図閲覧サービス(ウォッちず)から転載。 縄張図:戦国・織豊期城郭論の籾井城址から転載。

posted by うさくま at 12:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2009年02月03日

安土城址に登る

先の日曜日、ウサクマと娘二人の四人で近江に行った。目的は琵琶湖と水鳥、雪の比良山系をのんびり見ながらの湖岸ドライブであった。山科から大津へ抜け、近江大橋を渡って湖岸道路へ。天候には恵まれなかったが、随所で水鳥の群れを横目に見ながら、草津、守山を経て近江八幡方面へと向かった。と、岡山城址のカンバンがあらわれた。岡山城址は九里氏が拠った城で、政争に敗れて近江に逃れた足利将軍義澄を匿ったことで知られる城址だ。ここで山城モードにスイッチが入り、渋る家族の了解を得て、行き先は安土城址へと変更にあいなった。
安土城址には一度登ったことがあり、その後、観音寺城址や伊庭城址などを訪ねたときに近くを通り過ぎるばかりで、再訪することはなかった。大きな理由は、かつては自由に登れたものが、有料(拝観料大人:500円)になったことで料金所以外の所からは登れなくなったことにある。安土城址は全山に曲輪が散在しており、登り口が一箇所に限定されたことが、まことに一方的に思われて「なんだかな〜」と敬遠してしまったのだ。とはいえ安土城下は、いま探索を続けている丹波波多野氏が最期を迎えたところであり、なによりも戦国の山城として魅力的な城址である。加えて、安土城址ならウサ公はともかく、娘たちにも否やはないと踏んだのだ。

安土城址01
天守閣跡から北方を見る、かつては水をたたえる内湖であった。

以前にきたときの安土城址は、発掘作業が進められていたこともあって工事現場のような雰囲気であった。ところが、いまは石垣や曲輪などがきれいに整備され、立派な説明板も設置されている・・・拝観料は有効に活用されているようだ。さて、料金所を入ると目の前に壮大な石段が山上へと続き、両脇には豊臣秀吉、前田利家ら家臣屋敷跡の石垣が連なっている。石段には石材として石仏、五輪塔、さらには仏足石までが用いられており、戦国武将の合理性に驚かされる。城址は信忠屋敷跡、黒門跡、二の丸を経て山上の本丸へと続き、二の丸の一角には豊臣秀吉が造営した信長廟が祀られている。本丸跡には千畳敷といわれた御殿の礎石が残り、背後には天守閣を支えた高石垣が聳えている。改めて登ってみて、やはり安土城址は素晴らしい城跡であった。城址の要所には標識や案内板が整備され、木々や下草もほどよく刈り取られ、かつては木々で邪魔されていた天守からの眺めもバッチリだった。

安土城址02 space_w 安土城址03
石垣が残る山麓の家臣屋敷跡  大手から山上に続く石段

安土城址04 space_w 安土城址05
石段として用いられた石仏  天守閣跡の礎石群

下山は総見寺跡を経るコースを辿った。総見寺は信長がみずからの菩提寺として建立した寺で、安土城の西方にあった。本能寺の変ののち、安土城が炎上したときには類焼を逃れたが、幕末の安政元年(1854)に本堂など主要な建物を焼失してしまった。その後、本堂は徳川家康の屋敷跡という曲輪に再建され、かつての寺域には見事な姿の三重塔、二王門が残り、いずれも重要文化財の指定を受けている。焼失した本堂跡からは西の湖が遠望でき、その遥か遠くに叡山の峰が連なる様は絶景である。大手の石段から曲輪を経て本丸、天守閣跡へ、そして総見寺をたどる安土城址めぐりは、その展望のよさも含めて戦国時代を堪能できるところだ。これで『500円は安い!』と思ったのだから、まことにいい加減なものだ。

安土城址06
総見寺本堂跡から見た西の湖

安土城址07 space_w 安土城址08
総見寺二王門  金網越しに見た阿仁王像

安土城址は丹波の山城のように尾根を攀じ登り、雑木や藪の生い茂った曲輪や堀切を探検するということもなくスッキリした城歩きが楽しめた。もっとも、城址の全域には雑木や藪に覆われた曲輪跡が多く眠っており、それらを探索したい気持は強く持っている。しかし、それには面倒な手続きが求められそうで、ちょっと億劫ではあるが・・・。  by kuma

posted by うさくま at 13:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 近江の山城