2009年01月25日

篠山、波多野氏が第一歩を刻んだ城

波多野氏の居城といえば、三好氏、織田氏を迎え撃った八上城が知られる。しかし、波多野氏は応仁の乱に際して石見国出身の吉見清秀が細川勝元に属して活躍したことで、細川氏の守護領国である丹波多紀郡に所領を与えられたのが丹波と関係をもったはじめで、いわゆる余所者であった。丹波に入部した清秀は篠山市街北東の雲部本庄周辺に館を建て、波多野氏発展の第一歩を刻んだようだ。
清秀の子元清(稙通)は、細川政元の謀殺をきっかけに起こった細川氏の内訌を、たくみに泳いで勢力を拡大していった。そして永正年間(1504〜21)浅路山(高城山)西麓の八上奥谷に蕪丸(奥谷)城を築き、さらに高城山上に八上城を築いて、群雄割拠する丹波における有数の存在へと成長した。以後、波多野氏は紆余曲折、中央政界に威を振るったかと思えば領地を失うという挫折にも見舞われながら、秀治の代には丹波の戦国大名となった。しかし、新興勢力の織田信長との対応に失敗して、八上城における籠城戦のすえに滅亡してしまった。興って滅ぶまで百年、まことに呆気ないことだが、奥谷城は丹波の覇者に駆け上がった波多野氏が、最初の一歩を踏み出した城址だ。

奥谷01
東仙寺方面から殿町を見る(右:奥谷城址、左:法光寺山城址)

城址は高城山から伸びる南西尾根の先端の小山にあり、奥谷川を天然の濠とした要害である。登り口は虎口のある南西麓で、城址説明板が格好の目印として立っている。城址に取りつくと虎口で、さらに登ると左手の竹やぶが生い茂った平地が居館跡で、右手には雑木と雑草に覆われた帯曲輪がある。まずは、山上の曲輪を目指して急斜面を這うようにして登ること数分、山上主郭の切岸と帯曲輪への道へとたどり着く。帯曲輪はそれなりの広さで、雑木の隙間から南方に東仙寺跡がある山、西方に法光寺山が見える。

奥谷02 space_w 奥谷03
奥谷城址を遠望  山上主郭の切岸と南曲輪

帯曲輪から武者走りを通り、虎口を経て主郭に登り立つ。主郭は結構な広さで、帯曲輪、竪堀などが設けられている。高城山方面に続く尾根にも曲輪が設けられ、主郭とは土橋で結ばれ、両側に竪堀が穿たれている。そして、曲輪先端は高さ十メートル以上ある大堀切で穿たれ、高城山方面と城址とを分離している。築城当時には、高城山方面からの攻撃を意識していたようだが、のちに八上城が築かれてからは城下町と山上の城を結ぶ番城へと機能変化したものと思われる。

奥谷04 space_w 奥谷05
主郭への虎口   北曲輪を結ぶ土橋と竪堀

堀切から西側山腹を縫って竪堀を横切り、中腹に設けられた曲輪に取り付く。さらに、竹やぶが生い茂った居館跡の曲輪へと下っていく。いずれも、北側に自然の地形を残したと思われる土塁があり、奥谷入り口方面からの攻撃を意識した縄張りであることが理解できる。全体として小さな城だが、説明版も立てられ、曲輪・竪堀・大堀切なども明確に残っている。しかし、生い茂る竹、雑草、雑木には手を焼かされた。加えて、それぞれの曲輪からの視界もほとんどない。城址としての保存状態がよいだけに、何とか手を入れられないものだろうか。

奥谷06 space_w 奥谷07
尾根と曲輪を穿つ大堀切  中腹居館のあった曲輪の北側土塁

奥谷城のあった奥谷は殿町とよばれ、高城山麓側には往時の区画・石垣を利用したと思われる家々が建っている。おそらく、波多野氏時代には家臣の屋敷が並んでいたのであろう。一方、谷中央部には波多野氏の居館址など当時の地形が残っていたというが、圃場整備によって、すべて失われてしまったようだ。また、波多野氏は殿町-奥谷西方の法光寺山上にも城砦群を築き、東方の八上城、そして奥谷城と、三位一体で本拠地の防衛を図った。そう思って改めて殿町一帯を眺めると、戦国時代の風景が見えるような錯覚におそわれる。
ところで、法光寺山を市民憩いの森に開発しようとする動きがあったというが、八上城跡一帯が国指定史跡になったことで回避されたとのことだ。たしかに法光寺山上の城址をつなぐ山道は快適なものだが、それは山城遺構があってのものであり、戦国山城ファンにとってはまことに危うい構想であった。また、一昨年に八上城に登ったとき、遊歩道が設けられていた。それはかつて登ったときにはなかったもので、国指定をきっかけに、かつてあった古道や縄張りを無視して作られたものと聞いた。城址を完璧に保護しろ!とはいわないが、もう少し、後世に伝えるべき郷土の歴史遺産として大切に扱って欲しい。なんだか、城址に登るたびに苦言を呈してばかりだが、一度、失ったものは、二度と取り戻せないのだから!たとえ、小さな声であっても、登っては吠え続けるつもりだ、クマだから・・・~_~ ;。   by kuma

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2009年01月24日

篠山、波々伯部氏の支城址に登る

篠山市街の東方、宮ノ前に「丹波の祇園さん」として知られる波々伯部神社がある。一帯はかつて祇園社の荘園で、その下司をつとめたのが波々伯部氏であった。波々伯部氏は足利尊氏の旗揚げにも参じており、丹波生え抜きの武士の一人であった。波々伯部氏は波々伯部神社東方の淀山に居城を築き、室町幕府に仕え、荘園を押領するなどして勢力を拡大していったようだ。応仁の乱ののち、細川氏を後ろ盾とした波多野氏が多紀郡に台頭してくると、波々伯部一族はその旗下として行動するようになった。明智光秀の丹波攻めが始まると、波々伯部一族は波多野氏に属して活躍、最期は八上城に篭城して明智軍の攻撃に抵抗した。

東山城01
デカンショ街道を篠山へ - 右手前方に淀山城址、はるか正面に八上城址が見える

波々伯部氏の拠った淀山城はデカンショ街道を扼する位置にあり、京・摂津・丹波を結ぶ交通の要衝福住を篠山に向かって直進、小さな峠を越えると真っ正面に城址が現れる。淀山城から篠山方面西方には波多野氏の居城であった八上城址が見え、文字通り指呼の間というべき関係にある。波々伯部氏は淀山城を本拠として、東南の辻に東山城などを築いて一族を配し、京方面、摂津方面からの多紀郡侵攻に備えた。
今回登った東山城は、辻集落東方の山上にあり、辻川を天然の濠とした要害である。西北の淀山城が京街道からの敵に当たるとき、東山城はそれに呼応しながら東南の摂津方面からの敵襲に備えたのであろう。

東山城00 space_w .東山城02
東山城址を見る           南西曲輪の切岸

辻川沿いの猪鹿ネットを潜り崖道をたどって城址に取りつくと、まず見事な竪堀があらわれ、竪堀沿いに消え入りそうな登山道が山上へと続く。途中で道を見失った結果、城址のもっとも東南の曲輪にたどり着く。そこから主郭へ連続して連なる曲輪は、雑木が生い茂っているが、往時の姿をよくとどめている。虎口から主郭に入ると意外な広さで、北側に土塁が設けられている。主郭から北方には高い切岸をもった曲輪が続き、堀切で尾根を断ち切っている。一方、摂津方面へと続く東の尾根にも曲輪が続き、その先は深い堀切が穿たれ、さらにその東方にも曲輪と思われる削平地が残っている。主郭の東南部は天然の崖になっており、東南の守りを意識した作りであることが実感される。

東山城03 space_w 東山城04
主郭の土塁             北方曲輪と尾根とを区切る堀切

東山城05 space_w 東山城06
東曲輪の土塁            東の尾根と城址を穿つ大堀切

戦国時代の末期、淀山城、東山城に拠って明智軍と戦った波々伯部一族は、波多野氏が滅亡したのちは帰農し、波々伯部を波部と改め在地の有力者として続いたことが知られている。一昨年に攻略した淀山城址の主郭には、子孫の方が建立された波々伯部氏の顕彰碑があり一族の歴史が刻まれていた。しかし、淀山城・東山城ともに案内板も登山標識もなく、忘れられた存在になりつつあるようでまことに寂しいものがあった。今年、篠山は篠山城築城四百年祭が行われるが、篠山城以外にも歴史を語る城址が散在していることに心を傾けて欲しいと願ってやまない。   by kuma
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2009年01月18日

篠山、籾井一族の城址へ

戦国時代、八上城に拠って丹波一帯に覇を称えた波多野氏に属した武将に、「丹波の青鬼」の異名で呼ばれた猛将籾井下野守綱利(越中守教業とも)がいた。籾井氏は多紀郡東方の福住一帯を領した中世武家で、永正ごろ(1504〜21)に河内守照綱が安田(籾井・福住)城を築き、その子綱重は波多野氏と姻戚関係を結び勢力があった。
元亀年間(1570〜73)、綱重は福住からさらに京都寄りの地安口(はだかす)に籾井川を天然の濠として山裾に日常生活をする居館を築き、東側山上に合戦に備える詰めの城として安口城を築いた。そして、安田城を嫡男の綱利に譲ると、みずからは次男の綱正をともなって安口に住した。こうして、籾井氏は安田城に綱利、安口城に綱重・綱正父子が拠り、安口城のさらに東南に築かれた西野々砦と連携して天引峠からの侵攻に備えた。明智光秀の丹波攻めが起こると、北方の細工所城に拠る丹波鬼荒木氏とともに明智軍を迎え撃った。

安口界隈 

西野々から安口 space_w 西野々砦
西野々砦から安口・安田城址を望む  西野々砦跡鳥居

安口城址へは居館跡後方にある墓地を横目に谷に分け入ると、炭焼き小屋の跡とおぼしき石組みがあらわれ、その右手斜面にほとんど雑草に消え入りそうな細い登り道が確認できる。落ち葉を踏みしめながら山上に続く細道を二十分ほど登ると虎口で、一面に杉が植林された主郭へとたどりつく。主郭は思った以上に広く、南西尾根に築かれた数段の曲輪もそれぞれ十分な広さを持っている。木立で遮られているが主郭、各曲輪から東方の天引峠を一望でき、ほぼ正面に見える西野々砦と併せて、なかなかの要害であったことが理解できる。さらに安口城西方の山上には安口砦が設けられ、その西方には本城の安田城が控えている。

安口01 space_w 安口02
籾井川越しに居館址を見る   安口城址の大堀切

主郭の後方には大堀切が穿たれ、その北方には二段の曲輪、さらにその北方に数条の堀切が穿たれている。縄張りを見る限り、安口城は北方の尾根からの攻撃を意識した作りになっている。天引峠方面を睨む安口城の南面は、籾井川と山裾を取り巻く崖によって十分な防衛力があった。実際、籾井川を越えて崖に取り付くには、西方の安口砦からの攻撃もあり、相当の犠牲を強いられることは容易に想像できる。敵方としては安口城東方の谷を迂回して尾根に登り、北方から安口城に攻撃をかける作戦をとったと考えられ、籾井氏もそれを想定していたのであろう。
この西野々-安口-安田ラインは、多紀郡侵攻を目論む者にとって、最初に突破すべき手強い防衛線であった。天引峠を越えて多紀郡に侵攻した軍勢は、西野々と安口との隘路において少なからぬ犠牲を払い、さらに進もうとして安田・細工所からの援軍との間で激戦を強いられた。明智光秀の丹波侵攻に際しても籾井一族は果敢に抵抗、天正四年(1576)十一月、十八日間にわたる激戦のすえに明智軍を船井郡に押し返している。しかし、翌天正五年十月、明智の大軍の猛攻撃によって安口城は落城、以後、歴史の表舞台に登場することはなかった。安口城を落とした明智軍は安田城の攻略に取りかかった。城主の下野守綱利は、非戦闘員や傷病兵を城から落とすと本明谷川に討って出て敗れ自害したという。丹波の青鬼にふさわしい壮烈な最期であったようだ。
天引峠を越えてきた敵軍を迎え撃つ最前線の守備に任じた籾井一族、おそらく明智肩からの調略の手も伸びたことであろう。しかし、最後まで波多野氏に殉じた節はもっと顕彰されてもいいのではないだろうか。西野々砦も安口城もまことに小さな城だが、実際に訪ね歩いてみることで、書物からはえることのできない戦国史が実感できた。篠山の戦国山城めぐりは、ややつまらなそうなウサと折り合いをつけながら、これからも地味に続きます! by kuma
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2009年01月16日

MRI 検査、初体験!

MRI 検査を、生まれて初めて体験した!
MRIは Magnetic Resonanse Imaging の略で、磁気共鳴画像検査システムのことだ。よく、テレビのドラマや医療番組などで見かけるトンネル状のもので、強い磁石と電波を使って人体を輪切り撮影するやつだ。きっかけは年末に痛めた肩の痛みがとれず、思い切って整形外科にいったところ、骨に異常はないが原因を究明するためにMRI検査をやりましょう。・・・ということで、一昨日の晩、検査を受けてきたのだ.

MRI 検査

治療というよりは画像撮影であり、わが身はいわゆる被写体としてトンネルに入っていくだけだ。検査の前に「閉所恐怖症は大丈夫ですか?」と聞かれたが、検査を受けてみてその質問の意味がよく理解できた。まるで道路工事現場の真っ只中に寝かされたように、とんでもない雑音のオンパレードで、狭いトンネルの天井を見ながら雑音に包まれていると次第になんともいえない閉塞感がつのってくる。十五分の検査が終了したときには、かつて経験したことのないグッタリ状態であった。
「いかがでしたか?」との問いに、「あまりの雑音のひどさに不快を通り越して気分が悪かった」と正直に答えると、雑音の説明をしていただいた。雑音は、『撮影する写真の厚み及び位置関係等を、決定する為に必要とする傾斜磁場コイルに、電源を繰り返しオン・オフかけることによりコイルが伸縮する、その時に出る音』とのことだ。なるほど!音の原因は理解できたが、トンネルの中で身動きもならず聞き続けた雑音の洪水はまるで拷問そのものだった。得がたい体験をしたが、今後、MRI検査のお世話にはなりたくないものだと痛感した次第。やはり、健康が一番やね! by kuma


*写真はメディカルサテライト八重洲クリニックさんから転載させていただきました。

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2009年01月12日

篠山、盃ケ岳南の城址に登る

昨年の暮れ、年末年始の休みに篠山界隈の山城を攻略しようと、集めた縄張り図と地図とを照会しながら計画を練っていた。ところが、2008年最後に攻略した埴生城において肩を打撲、加えて連日の雪模様で山城攻略はあきらめた。とはいえ、せめて攻略目標とした城址の立地だけでも研究しておこうと、本年最初の日曜日に盃山(盃ヶ岳)南部の城址群を見にいった。しかし、見るだけのつもりが、ついつい肩の痛さを庇いつつ登ってしまった。

盃山は篠山西北にあり、かつて篠山に本営をおいた歩兵第70連隊が、朝の調練や多紀連山を舞台とした山岳訓練を行った山として知られている。また、盃山西方にあるユニトピアささやまは、家族憩いの休暇村として人気を集めているところだ。一帯には盃山頂上にある城址をはじめ、矢代城、大野城、遊谷城などの城址が点在している。いずれも、それぞれの地域を領した土豪たちの拠ったところで、戦国時代には波多野氏に属して明智光秀の丹波攻めに抵抗した。
城址群へは篠山口駅方面から車を走らせ、ユニトピアささやまへ入る道を曲がってすぐ右手の山裾に春日神社、その北に大歳神社が鎮座している。春日神社と大歳神社を含んだ小山一帯に大野城址の縄張りが展開しており、城址へは大歳神社から取り付いた。ほとんど雑木林だが、尾根には数段の曲輪、それを取り囲むように帯曲輪が設けられている。大歳神社、春日神社の境内も曲輪であったようで、山全体が城砦化していたようだ。築いたのは北方にある矢代城主の国松氏というが、明智方が矢代城や盃山城攻めの向城として築いたものともいわれる。
大野城と対した矢代城は山上にある詰めの城と、山麓の丘陵に築かれた館跡がある。館跡と大野城とは、まさに目と鼻の先の位置にある。矢代城は土豪国松氏が築いたことから国松城ともよばれる。国松氏は波多野氏に属したて明智光秀の丹波攻めに抗したが、波多野氏滅亡後は帰農したといわれる。館跡には西方の矢代川から入り、北方の大堀切を経て、小祠のある主郭へと道が続いている。主郭から南方を見ると目の前に大野城が見え、明智勢と対峙した国松氏の緊張感が彷彿としてくる。館跡は小ぶりなものだが、主郭を中心に帯曲輪が取り巻き、いまも明確に縄張りが確認できる。

大野城 space_w 矢代居館
大野城址の曲輪を見上げる  矢代城居館の帯曲輪から主郭を見る

大野城東方、盃山の尾根が今福集落に延びきった尾根先端に今福城址がある。規模を見る限り城というより館で、今福・野尻一帯を支配下においていた畑氏が天文年間に築いたものという。畑氏といえば、八百里城に拠った畑氏が知られるが、今福畑氏は野尻畑氏とよばれて別流であった。館跡は南面が建売住宅の建築にともなって削られているが、曲輪・堀切など縄張りがよく保存されている。しかし、藪と雑木が生い茂り、あと何年かすれば城址を探索するのは困難になりそうだ。
歩兵第70連隊の本営跡地の一角にある篠山警察署から道路を隔てた北東の小山に、藤井居館、その後方の山上に遊谷城があった。いずれも藤井氏が築いた城館といわれ、藤井居館は60メートル四方の規模で、主郭には石碑と小祠が建立されている。土塁に囲まれた主郭部の北側には帯曲輪があり、帯郭に沿って水掘が穿たれて、往時の縄張りがいまも明瞭に残っている。

今福城 space_w 藤井居館
今福館のある小山を西方から見る  藤井居館北方の帯曲輪から切岸を見上げる

藤井居館址から遊谷城へは、居館址すぐ南にある長楽寺東方の道を分け入り、朽ち果てつつあるかのような神社の横から山上をめざした。落ち葉の散り敷いた山道を登って行くと、南郭に到達する。遊谷城は南郭、中郭、北郭で構成され、南郭が主体で帯曲輪・竪堀などが設けられている。南郭から中郭へは高い切り岸で隔てられ、中郭にはNHKの電波塔が立っている。さらに、北郭に進むと突然に用水施設の建物があらわれる。遊谷城址は縄張りも明確に残っているだけに、突然にあらわれた用水施設には驚くやら、城址の扱われ方の杜撰さに腹がたつやらした。しかし、一方で城がもつ立地のよさを裏付ける傍証にも思われ、複雑な気持ちであった。城主は藤井氏と推定されているが、近在土豪の浜谷氏・郡家氏・熊谷氏等が使用したともいわれている。

遊谷城01 space_w 遊谷城02
遊谷城北郭の用水施設  北郭から東浜谷の長源寺を見る

いずれの城址もそうだが、わずかに残る曲輪や堀切などかつて城があったことを伝えるばかりで、それぞれの歴史も詳らかではない。また、一部を除けば訪れる人もなく、城址としての扱われ方もぞんざいで、緩やかに自然に帰りつつあるものが多い。山城や居館は郷土の中世史に足跡を刻んだ遺跡だけに、登り道を整備したり、標識を立てたりするなど、後世に伝える手立てをして欲しいと願ってやまない。その実現のためにも、篠山界隈の城址攻略とリポートを続けていきたいと意気込むクマである。 by kuma

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2009年01月10日

2008年おさめの山城攻略!−神尾山城・埴生城

2008年最後の土曜日、久しぶりに相方のウサ公と山城に登ってきた。亀岡市西方にある神尾山城と埴生城で、いずれも丹波の戦国大名波多野氏に関わる城として知られ、かねてより狙っていた城址だ。

昨年夏ごろ、ウサッチと一緒に但馬方面の山名氏垣屋氏に関わる山城をせっせと登ったが、藪漕ぎによってウサッチがダニに咬まれるという事件があったり、秋には篠山界隈の名所・旧跡、祭りなどを訪ねることに忙しく、また天候にも恵まれずなかなか山城に登れなかった。篠山には八上城を中心として戦国時代の山城が散在していて、これまで波々伯部氏淀山城籾井氏籾井城荒木氏細工所城など有名な山城はほぼ攻略した。それ以外にも小さな城址・居館が数多存在しており、それらの山城探索は篠山取材とも相俟って想定内においていた。しかし、丹波の山城=松茸山であることが多く「瓜田に履を入れず」無用なトラブルを避けるうえでも松茸シーズンが終わるのを待った。
よく知人などから、「山城なんて何も残ってないし、ただの雑木林にしか見えないし、その面白さが分からない」と言われる。たしかに、山城はかつてそこに城があったというだけで、実態は登り道もほとんどなく、城址とおぼしき場所は雑木に覆われ、地元でも忘れられた存在というものが多い。しかし、山城に登ると土塁・堀切、わずかな石垣なども残っており、中世武士たちが存亡を賭けて戦った歴史が刻まれている。また、山城は見通しが利く山上に作られており、道なき道を攀じ登り、城址の本郭にたどり着いたときに広がる展望のよさも魅力の一つだ(もちろん視界が悪いものも多い・・・)。姫路城など近世城郭には天守閣や曲輪などの建物が残り、その造形の美しさは格別のものがあるが、そこから武人たちの熱い息吹はまったく伝わってこない。たしかに戦国山城は何もないといえばそれまでの所だが、そこは間違いなく戦国時代を実感できる場所であることが最大の魅力なのだ!

さて、まずは神尾山城である。神尾山城がいつごろ築かれたのかは不明だが、大永六年(1526)頃、八上城主波多野稙通の弟柳本賢治が拠っていた。戦国時代、明智方の丹波攻略における中継基地となり本目の城と呼ばれ、降伏勧告をいれた波多野秀治・秀尚兄弟が安土に向かう途中で迎えいれられた城といわれる。城址は神尾山金輪寺後方の山一帯に展開しており、曲輪、石塁、土塁、空堀なども確認でき、丹波でも有数の規模を持った城であったことが実感できる。しかし、思った以上に雑木林化が進んでいて見晴らしも悪く、内藤氏の拠った八木城址などと比べると大味な感じは否めないものであった。下山途中に茸好きなウサッチがホコリタケを発見、小枝でせせると「パフッ」という感じでホコリを吐き出す。こういった普段は見ることのない植物(きのこ)や動物などとの出会いも、山城登りの楽しさだ。とはいえ、ツキノワグマやマムシなどは遠慮したいけれどね。

神尾01 space_w 神尾02
神尾山城を遠望  曲輪を隔てる堀切を見る

神尾03 space_w 神尾04
相当な高さの切岸  平虎口に僅かに残る石垣

埴生城は神尾山城の西方に位置した小城で、土豪野々口氏が築いたものだ。城址はかつての城門が移築されたという最福寺後方の山上にあり、館跡と思われる削平地から葛篭折れに登り道が続いている。尾根にたどりついたところが虎口で、石垣が散在している。城址は単純な縄張りで、櫓台があったと思われる高所の下にも石垣が散在しており、櫓台後方の大堀切斜面も石垣が見られる。まことに小さな城址だが、波多野氏と対峙する最前線に位置する城として、石垣を多用した堅固な造りであったことが見て取れる。最福寺境内にある墓地をみると野々口家の墓碑が多く、かつての城主野々口氏の子孫にあたる家々のものであろうか。墓石に刻まれた家紋はいずれも「丸に三つ引両」で、ひょっとして野々口氏は桓武平氏三浦党の流れを汲むのだろうか?などと空想が広がって楽しかった。

埴生01 space_w 埴生02
最福寺山門と後方に見える城山  虎口の石垣

埴生03 space_w 埴生04
高櫓下に崩れ落ちた石垣  城址南端を区切る堀切

山城の探索は、土塁や堀切が明確に観察できる晩秋から初夏までがシーズンだ。さて、次はどこの山城を攻略するか、ゲットした縄張り図と地図を見ながら作戦を練っているが、まずは篠山界隈の城を攻略していこうと思っている。 by kuma
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2009年01月09日

12月の愛宕山を振り返る

家を留守にしない限り、毎日、玄関を開けた真っ正面に愛宕山を見ている。一昨年の暮れより気の向いたときに愛宕山を撮影してきたが、この十二月は特にマメに愛宕山を撮影した。振り返ってみると、晩秋から冬へと変化する愛宕山の様々な表情が見て取れて面白い。

愛宕1206 愛宕1210
12月6日 紅葉が残る → 12月10日 霧に覆われた愛宕山

愛宕1211 愛宕1212 
12月11日 → 12月12日 靄に霞む山容

愛宕1213 愛宕12132
12月13日 → 同日、山頂から嵐山方面を見る

愛宕1216 愛宕1219
12月16日 → 12月19日 

愛宕1222 愛宕1224
12月22日 → 12月24日 イブの晴れ渡った愛宕山

愛宕1226 愛宕1227
12月26日 雪雲で覆われた愛宕山 → 12月27日

愛宕1229 愛宕1231
12月29日 → 12月31日 積雪が眩しい大晦日の愛宕山

愛宕山はこれからも撮り続けるつもりだが、時間を決めて撮った方が…変化がわかって面白いのではないか?・・・などと自分で自分の首を絞めるようなことを考えている。続けるということは収集壁にも通じるところがあり、いまのマンションに住み続ける限り、愛宕山の撮影はやめられそうにない。 by kuma
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2009年01月07日

あれこれ…、その後。

どうでもいいことだけど、持ち前の収集癖を刺激されたあれこれ、その後をみずからの覚えとして。
 
●伊右衛門のおまけは?

4セットを収集し、5セット目を集めている途中でおまけ付き期間が終了!
現在、3セット目以後のもは袋に入ったままの状態で、デスクの中に放り込んである。 

伊右衛門のおまけ
 
●畠中恵のしゃばけシリーズは?

読み始めると、その面白いこと!一気に、ぬしさまへ、ねこのばば、おまけのこ
そして、ドラマ化されたうそうそまでを読破!
しゃばけでは何となくもっちゃりしていた文章が、うそうそではとっても歯切れよくなった。
仁吉や佐助など登場人物それぞれのエピソードも面白く描かれ、
なにやら円熟の境地に至った感も・・・。
シリーズは、引き続きちんぷんかんが出ているが、ハードカバーを買うか、
文庫本になるのを待つか、思案をしているところだ。

うそうそ

●五社めぐりは?

思い立って四神相応の中心に位置する平安神宮に参拝したけれど、
なんとなく他の四社を経巡る気分にならず、呆気なく挫折してしまった。

●十六社めぐりは?

冬休みに入ってすぐ、粟田神社→熊野神社に行ってきた。
しかし、元旦より二月十五日までの期間内に十六社をめぐる気力が湧いてこず、
当然ながら朱印帳を買う気も起きなかった。
十六社朱印集めは、五社めぐり同様に挫折だろうな〜。

粟田神社 space_w 熊野神社
左:粟田神社  右:熊野神社

穴八幡のお札は、毎年続けていることでもあり、今では欠かせないものとなっている。
それに五社、十六社が加わるかと思うと、正直、気が重くなったというところだ。
神社は好きだし、これからも十六社を含めあちこちの神社めぐりを続けていくが、
現時点で朱印集めはちょっと視野から外しておきたい。
いま、収集癖を充たす新たなターゲットを物色中だが、朱印帳はどうも違うかな・・・。
さて、どうしたものか。 by kuma
posted by うさくま at 18:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年01月05日

大河ドラマ「天地人」を見た…

大河ドラマ「天地人」が始まった。クマ待望の戦国時代を舞台にしたものだ。
昨年の「篤姫」は、幕末もの、大奥ものということで、大きな期待もなく見はじめたところ、見事に嵌ってしまった。歴史的なことはおくとして、宮崎あおいの達者な演技もよかったが、何よりもドラマとしての面白さが際立っていた。「篤姫」の描く世界は「テレビは面白くなくっちゃ」などというテレビ局制作の「大奥」と共通するところが多かったが、当然のことながら某テレビのドロドロ感はなくスッキリとした上質なものであった。

さて、「天地人」である。戦国ものということでおおいに期待し、番宣も見て、昨日の第一回を視聴した。結果は「いささかガッカリ」というものであった。冒頭の秀吉と直江兼続のやりとりはともかく、妻夫木くんのヘアスタイルに「びっくり」、それは上杉景勝役の北村一輝も同様で、両者ともに月代を剃っていない!ガイドブックで両者の髪型は知ってはいたが、それは青年時代のものと思っていた。先の秀吉と兼続の対面エピソードは秀吉が天下をとって後のことであり、兼続も景勝もひとかどの成人武将であった。それなのに、月代を剃っていないとは・・・!たしかに兼続と景勝の肖像画を見る限り、両者が月代を剃っているのか、いないのか・・・分かりにくい。が、当時の風俗から推して月代を剃っていない武将はまずいなかったはず(・・・景勝の肖像画は月代を剃っているように見える・・・)、このままではコミケに出回るバイセクシャルっぽい戦国マンガと変わらないではないか!!!NHKさんの時代考証はどうしたのだろう???

兼続 景勝 左:兼続 右:景勝

ついで、与六といわれた幼年時代のエピソードのなかで、父とのやりとりにおける「・・・じゃ」という喋り口調にも驚いた。あの時代、樋口家程度の武家の子供があのような言葉を使うことの違和感、父に対する言葉遣いとしての有得なさ、ここでもNHKさんの時代考証はどうしたのだろう???あまりのひどさに九時より「必殺」にチャンネルを変えてしまった。とはいえ、「天地人」は一回目のことではあり、これからのドラマ展開に期待したいものの、兼続と景勝の髪型があのままである限りガッカリ感は払拭できないだろうな〜。となれば合戦シーンに現われる旗指し物や甲冑に据えられるであろう家紋探しを楽しもうと思うが・・・、肝心のドラマそのものが盛り上がらないと見忘れることもあるかも知れないし、悩ましいことだ。

一方の「必殺」は緒方拳が藤枝梅安を演じた最初のシリーズ以来、好きなドラマの一つであった。ある時期、ドラマはマンネリに陥って終了してしまった。その後、スペシャルとして何回か新作が放映されたが、とりたてて見ることはなかった。昨日も見るつもりはなかったのだが、大河ドラマをスライドして見てしまった。「う〜〜ん!」・・・このドラマもひどかったかも。「晴らせぬ恨みを晴らす」という状況設定が弱いうえに、あの依頼金額の安さ、あれでは殺される方に同情してしまうな〜。エピソードには面白いものがあっただけに、残念!遠いむかしの時代を再現することに無理があることは承知しているが、もう少しリアリティのあるドラマ作りができないものでしょうか。・・・と、テレビ局各社に願うのはクマだけではないだろう!!!  by kuma
posted by うさくま at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラマ(TV)を楽しむ